嘉義空爆を目撃「若者にも知ってもらいたい」

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陳淵燦さん

嘉義市生まれ、嘉義市在住
元税務署職員 86歳(1931年3月10日生まれ)

取材・文:編集部

日本統治時代に生まれ、15歳まで日本語教育を受けた陳淵燦。思春期には嘉義空爆を目撃しながらも、終戦後の混乱を生き抜いてきた。反戦を胸に復興を遂げた嘉義の街で夫婦二人穏やかに過ごす日々だが、今、胸に去来するのは「当時の惨事を若者にも知ってほしい」。陳淵燦自ら記した、生々しい空爆の様子も併せて紹介したい。(文中敬称略、以下同)

台湾南部の嘉義市にある陳淵燦の自宅を訪れると、「遠いところからようこそ」と流暢な日本語で出迎えてくれた。リビングルームの奥には床から天井までの大きな書棚があり、『広辞苑』や『辭海』などの辞典をはじめ日本と台湾の本がぎっしり並べられている。

陳淵燦は1931(昭和6)年、11人兄弟姉妹の次男として嘉義市に生を受けた。映画『KANO』にも描かれた、嘉義農林学校が甲子園に出場し準優勝した年である。初等教育と前期中等教育を担う国民学校(6年制)を卒業後、嘉義専修商業学校の初級部2年、15歳の時に終戦を迎えた。終戦の年、学校では先生引率の下、生徒は奉仕作業という名目で嘉義飛行場の草刈り、高射砲陣地の埋め立て作業などに従事するばかりで、まともな授業はされなかったという。当時の先生はほぼ日本人。日本語を話さないと「運動場を走れ」などの罰も受けた。

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嘉義空爆を目撃

 終戦からさかのぼること4カ月前、1945(昭和20)年4月3日の朝、陳淵燦は嘉義の北10キロ余りにある疎開地・民雄の丘陵で弟と薪を拾っていた。ふいに爆音が聞こえ顔を上げると、爆撃機ノースアメリカンB25が台南の枕山を飛び越え嘉義市内にバラバラと爆弾を落としているのが見えた。日本を爆撃したのと同じ軽爆撃機だ。すぐに頭をよぎったのは、当時嘉義市内の郵便局で働いていた父と、台湾銀行に勤務する兄のこと。二人の身が心配でたまらなかったが、幸い近くの防空壕に避難でき、その晩、無事帰宅した。

15歳とはいえ、外で働く父と兄を除くと、家の中で一番大きい男子である陳淵燦は、生活物資を調達する役目があった。戦時中は経済統制があり、本来は家庭の名簿を持って指定された場所へ行くと、人数によって定められた量の食材を買うことができる。しかし前年から続く台湾全土への空襲で、11都市のうち台中を除く10市の機能がほぼ停止という状態に陥ると、食材を調達するのは困難を極めた。陳淵燦は家族の腹を満たすため、母と共に四方を駆け回った。

嘉義市内は一面見通せるほどの焼野原。木造家屋はすべて火の海となり焼け落ちた。その場所を見た陳淵燦の心に、「戦争を早く終えることを理由に、非武装の街にこんなことをするなんて」と反戦反米の気持ちが湧き上がった。空襲の前、母方の叔母一家に頼まれ、兄と一緒に防空壕を掘ったことがある。その防空壕が、その後で叔母の一家5人の命を救ったことは、今も陳淵燦の心を温かく慰めている。

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独学で続けた日本語

陳淵燦の母語は台湾語。幼少期は学校で日本語を学んだものの、終戦後は北京語に変わった。そうした環境で、今も日本語を話せるのはなぜなのか。
「忘れないよう、ずっと独学で学び続けています。言葉、語学が好きなんです。終戦後、大陸からやってきた先生の中国語も注意深く聞いて、台湾人特有のアクセントなども研究しました」

確かに陳淵燦の話す日本語は日本人と変わらない。北京語も東北地方の発音に近いと言われるそうだ。日本の雑誌『文藝春秋』も読む。日本語版『リーダーズ・ダイジェスト』を北京語に翻訳するうち北京語も上達した。嘉義縣稅捐稽徵處(現在の嘉義縣財政稅務局。いわゆる税務署)に在職中は、趣味が高じて中国語に翻訳した日本の記事を新聞社に寄稿。その文才が買われ、2004年には当時の嘉義市長に嘉義の人物誌の執筆依頼も受けた。

好奇心と行動力で充実の半生

嘉義縣稅捐稽徵處に在職中、大手通信会社に勤務する吳碧華さんと結婚。理想通りの女性だと一目ぼれし、知り合ってから4カ月のスピード婚だった。共通の趣味は登山で、在職中は中華民国登山会の会員という筋金入りの登山好き。台湾の玉山、阿里山から日本の富士山、槍ヶ岳まで夫婦でたくさんの山に登った。

「日本に登山に行った時、親切な人にお会いしたんですよ。長野の小学校の教諭で、国語の本を12冊くれました。息子に日本語を教えようと持ち帰ったのですが、医大に進学し米国へ留学してしまったので、教えそびれました」
子どもは一男一女に恵まれた。医師になった息子は現在台北に住んでおり、時々一家で遊びに来る。
「台湾には『親職教育』(親の責任)『水火無情』(水と火の災害は情け容赦ない)という言葉があります。水は危険だけど泳げれば回避できるので、子どもには水泳だけ教えました。親は子どもを独り立ちさせる責任がありますから」

生まれ育った嘉義の街に暮らし、子どもを立派に育て上げた陳淵燦。好奇心旺盛なところは若いころから変わらず、ここ数年は気功に励んでいるという。きらきらと若々しい眼差しが、陳淵燦の充実した人生を物語っていた。

(2017年8月号掲載)

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