紆余曲折を経て天職見つけた

2017.10.12_144

邵瀚儀さん

台北市出身・台北市在住
中国語教師 (30代)

取材・文:高橋真紀

台北市で暮らす邵瀚儀は、台湾一の名門大学、台湾大学卒で中国語教師の資格を持ち、大学の語学センターで講師をしたり、マンツーマンレッスンをして生計を立てている。台北の街を颯爽(さっそう)と歩く30代女性たちの一人である彼女は一見エリートに見えるが、複雑な事情で家族と疎遠になりながら、常に前向きに歩いてきた努力の人だった。中国語教師という天職を見つけるまでの長い道のりや、教師として女性として持っている夢について聞かせてもらった。(文中敬称略、以下同)


日本ではアラサー、アラフォーという言葉もすっかり定着したが、台湾でも30代女性は皆、楽しそうに暮らしている。独身でもバリバリ仕事をしてお金を貯め、おいしいものを食べたり旅行に行ったり。SNSをのぞけば、日々を謳歌(おうか)する彼女たちの暮らしぶりがうかがえる。

今回紹介する邵瀚儀も、台湾でリアルに生きる30代女性の一人だ。台北市出身、現在は市内で一人暮らし。名門大を卒業して自立した生活を送る彼女ではあるが、聞けば仕事も生活も紆余曲折の末にたどり着いたものである。

「姉が一人いるんですが、早産で生まれたので小さいころから体が弱く、父親譲りの喘息(ぜんそく)持ちだったんです。両親はそんな姉ばかりかわいがって、私には無関心。母が外資系の会社で働いていて多忙だったこともあり、私は10歳まで祖父母の家で育ちました」

複雑な生い立ちを語る口調はあっけらかんとしている。祖父母の家から通っていた光復国民小学校4年の時に両親の元に戻るのだが、その後も窮屈に感じることが多かったそうだ。

「中学の時には2、3年また家を出ておばあちゃんの家に住んだりもしました。学校が近かったこともあるけど、その方が気が楽だったんです。20歳で家を出るまで、仕事が忙しい母の家事を手伝ったり、学費を払ってくれと言えなくていつも延滞したり、大変だったから」

小さな貿易会社を営んでいた父親は、母に比べれば理解があり、学費なども工面してくれた。ところがその父も彼女が15歳の時に、持病の喘息で他界してしまう。

「12月の寒い日に、喘息の症状が悪化して、息ができなくなって。紫色の手足でICUに運ばれたのを今でも覚えています。49歳でした」

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その翌日も登校して授業を受けた、というエピソードに、彼女の強さが表れている。父を亡くし、家を出たいという気持ちがいよいよ募った邵瀚儀は、学費の高い私立高校に通うのを辞め、留年して「五専科」と呼ばれる5年制の専門学校を受験し直すことにした。五専科とは、中学卒業資格を持つ者が高校卒業と同時に専門的な知識や技能を身に付けることのできる教育機関で、卒業後は学んだ分野の仕事に就きやすいのが特徴だ。

「早く自立するには一番いいと思って。母の唯一いいところは、私の決めたことをいつも尊重してくれた。留年中の費用も出してくれました」

五専科でパソコンや国際貿易などについて学びながら、遅くまでバイトして夜遊びも覚え、ほとんど家に寄り付かなくなった。卒業後に念願の一人暮らしを始めたが、専門学校での勉強もあまり身に付かず、5年ほどフリーター状態だったという。親戚の紹介で始めた大病院でのバイト歴も3年になり、ようやく収入が安定してきた25歳のとき、転機は訪れた。

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友人の勧めで台湾大学夜間部を受験

「専門学校時代の友達が、大学の夜間部を受験したというんです。大卒だと仕事も選べるし、給料も違う。夜間部なら昼間は仕事をしながら勉強できる。あなたも大学に入れるよと言われて、やってみようという気持ちになりました」

いざ大学に入ることを考えると、学ぶのは文系の、語学に関する分野がいいのではないかと思った。読書好きの祖父の影響で、子どものころから唐詩などに親しんでいたし、勉強嫌いだった学生時代を思い出しても、国語の授業だけは印象に残っていたからだ。とはいえ最初から中国語教師になろうと思っていたわけではない。学費の安い国立大学で、語学系の学部があり、台北から通える大学は、一つしかなかった。それがたまたま台湾の最高学府・台湾大学の中国語科だったのである。

「試験は国語で高得点を取れたので、なんとか合格。入学後は人生でこんなに真面目に勉強したのは初めてというくらい一生懸命でしたね。台湾大学の夜間部は5年制なんですけど、母にはとても5年なんて続かないだろうと言われた。でも授業は楽しかったし、やっと自分のやるべきことを見つけたという感じでした。昼間はバイトをしながら雨の日も風の日も休まず学校に通って、30歳でようやく大卒になりました」

在学中にはテレビショッピングの電話受付などあらゆる仕事をしていたが、知人の紹介で中国語を教えるバイトをしたのがきっかけで、教える楽しさに目覚める。「生徒とのコミュニケーションや、中国語の構造をどう説明するのか考えるのが面白くて。それで卒業後に中国語教師の資格を取ることにしたんです」。

2年かけて指定の5科目には合格したものの、資格取得のためには、中国語以外の外国語能力を証明しなければならなかった。そこで2011年ごろから韓国語を勉強し始める。いまだ資格も取れず、経験もないので、就職面接にいくも全滅。淡江大学で夏季だけ講師の仕事を手に入れるのがやっとで、安定した収入には程遠かった。生活のため13年から2年間、外国人向けの中国語教材で有名な「正中書局」で働き、会社員務めの傍ら韓国語の勉強に打ち込んだ。14年にようやく中国語教師の国家資格を取得。その後は東呉大学、銘傳大学(共に台北市の私大)の語学センターで講師の仕事を得て、淡江大学では長期の授業を担当させてもらえるようになった。「やっと使ってもらえる教師になれたんです」。少し得意そうな笑顔を見せる。

ここまでの道のりを聞いていると、その笑顔にこちらまでホッとした思いだ。だが続けて彼女が口にした言葉は意外なものだった。

「これから2カ月ほど韓国に行ってきます。韓国語を勉強し始めてから一度行ってみたかったし、長期の仕事がひと段落ついたから」

語学教師として一応は稼げるようになったけれど、長くやっていくためには自分の売りが必要。それが何なのか、どういう中国語教師になりたいのか。海外に行ってみることで、答えが見えるのではという期待もあるそうだ。

「これまですごく忙しかったし、いつもお金がなくて追われてきたから、ちょっと休みたいっていうのもあるんです。韓国で誰かと出会って電撃結婚なんていうのもいいですね(笑)。周りの友達は独身でも楽しそうだし、それもいいなと思うけど、私には家族がいないから」

中国語教師としての方向性や強み、あまり知らずに育った家庭の温かさ。それを見つけた時、彼女の笑顔はより輝くのかもしれない。少し立ち止まった後は、ただゆっくりと自分の人生を歩んでほしい。そう願わずにいられない。

(2017年11月号掲載)

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