「台北大空襲」(上)総督府炎上 戦後70年特別企画

取材・文:迫田勝敏 写真提供:陳義深

戦後70年の今年、中華民国(台湾)では「抗日戦争勝利70周年」の記念行事が行われているが、70年前の台湾は日本の統治下にあり、米軍の爆撃を受けていた。中でも昭和20(1945)年5月31日の台北大空襲では総督府(現・総統府)が炎上、3000人を超す死者を出したとされる。だが、日本と台湾の歴史の狭間に埋もれ、この大空襲を日本はもちろん、台湾でも知る人は少ない。忘れ去られようとしている台湾空襲に光を当てた記事を、3回にわたってお届けする。

 

500キロ爆弾直撃で一家全滅

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500公斤的炸彈 台湾に投下された500キロ爆弾。

「空襲警報が鳴ったので急いで風呂の脱衣場の下の物置に逃げた」
その時、台北一中(現・建国中)1年だった平井輝男さん(82)=東京都在住=は、総督府からそう遠くない自宅にいた。軍に校舎を占領された台北三中が台北一中に同居したため、学校は二部授業。その日は午後から登校だったからだ。

爆弾は落ちれば「ズダーン」と轟(ごう)音を立てるが、落ちてくる時は「ザザーッ、ザザーッ」と空を切る音がすると平井さん。それが聞こえるということは近いということで、案の定、すぐに轟音が響き、大地震のように揺れた。
「爆撃が止むと、部屋中、ほこりだらけで目が開けられない。外に出たら、200メートル先の日本家屋に爆弾が落ちていた。後で知ったが、500キロ爆弾で、一家は全滅。その夜、総督府(現・総統府)が赤く燃えていた

城内狙いの「定期便」飛来

第二次世界大戦中、米国など連合軍による台湾空爆は昭和18(1943)年から断続的に行われた。昭和20年には、台北市民が「定期便」と呼んだほどの連日の空爆。その中でも最大規模が、5月31日の大空襲だった。
米国側の記録では、この日、フィリピンのスービックを飛び立った117機のB24爆撃機が午前10時から午後1時まで台北市内に3800発余りの爆弾を投下し、死者3000人以上、負傷者は数万人に上ったとされる。
爆撃の狙いは空港や駅などの公共施設と、日本人が多く住む「城内」といわれた。日本統治以前の台北は城壁に囲まれた町。現在の中山南路、忠孝西路、中華路、愛国西路に囲まれた地域で、城内(城中とも)と呼ばれた。城壁がなくなった後も、呼び名は残り、その中心が総督府。総督府は爆撃で塔の左下に被弾して崩れ、三日三晩炎上した。

総督府地下で数百人が生き埋め

専売局に勤めていた黄培根さん(89)は疎開先の樹林で台北方面が燃えているのを見て、翌日、台北に行った。
「勤務先は大丈夫だったが、総統府の塔の左が崩れ、がれきの上を2階まで登れた。総督府に勤めていた隣家の息子が、総督府の防空壕に逃げたが、爆風で死んだと聞いた」
総督府の地下に避難した職員数百人は地上への脱出路を断たれ、生き埋めになり、地下から助けを求める声が聞こえたが、2,3日後には聞こえなくなったという。昭和天皇の皇太子時代の行幸記録などの資料も焼失した。
空襲から数時間後、杜祖健さん(85)=米コロラド州在住=が、朝、台北に出た母を捜しに郊外の疎開先から総督府近くの新公園(現・二二八紀念公園)に来た。
「あちこちに爆弾が落ちて、直径5メートルの穴が開き、水たまりになって、人影はまったくなかった。公園のそばの台湾銀行(現在も同じ場所)は2階のフロアが落ちて床全体に紙幣が散らばっていた。隣の総督府は建物全体が火事でボーッと音をたてて、熱風が送られてきた」

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爆撃の大きさを物語る未修復の総督府(1945年10月撮影)。

牛車で遺体を台北駅に運ぶ

その夜、母は無事帰ってきたが、杜さんは翌日も新公園に行った。
「大勢の人がスコップで埋まった防空壕を掘っていた。炎熱のため、たった1日で遺体は腐食し始め、強い異臭がした」
城内は空き地が少なく、新公園に幾つもの防空壕を掘った。そこへ避難した多くの人が生き埋めになったのだ。
新公園隣りの台北帝大付属病院(現・台湾大学病院)には作家の陳婉真・元立法委員の母がいた。母は元看護士で数年前他界。陳さんは子どものころ、母から繰り返し空襲の話を聞いた。
「母は机の下に潜って爆風を凌いだ。付属病院の向かいの赤十字病院では南方の戦地に送る地方出身の台湾人医師の訓練中で、爆撃でほとんどが死亡。遺体は新公園に運ばれ、遺族が遺体を確認して、牛車に乗せ、台北駅に運んでいたと聞いた」
米軍など連合軍の台湾空襲は特に3月から6月に集中している。この時期、連合軍は沖縄戦を展開中。同時期に台湾を連日、爆撃したのは、台湾を出撃基地とさせないためだったともいわれる。その象徴が総督府爆撃で、総督府は機能喪失、再び統治の中心として使えるようになったのは爆撃から3年後、中華民国総督府と名前を変えてからで、爆撃の影響で中央の塔は今もわずかながら左に傾いている。

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現在も、少し左に傾いている総統府。

(2015年10月号掲載)

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