「台北大空襲」(中)よく生きていた!

戦後70年特別企画

「よく生きていたと思う。あんな思いはもう、いや」。70年前の5月31日、台北大空襲の日、灘野桂子さん(88)=現・神戸市在住=は台北市新起町(現・西門町近くの内江街)の自宅で空襲に遭った。一帯は台湾人が多い城外。米軍は日本人の多い城内を狙ったといわれているが、実際には城外も爆撃された。多くの日本人、台湾人が被災した。その一人、灘野さんの「その日」を追った。
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台北大空襲では3800発余りの爆弾が投下された。(写真提供:陳義深氏)

グオングオン―轟音が襲い掛かる

「空襲警報が出たぞ! 早く支度しろ!」。その日、2階にいた灘野さんはいつもと違う父の怒鳴り声ですぐに着替えた。2ヵ月前、台北第一高女(現・台北第一女子高級中学)を卒業、気象台勤務となったばかり。母と妹弟は疎開、父と二人で自宅にいた。
下に降りるとゲートルを巻いた父がいた。自宅の防空壕は大型で頑丈。隣近所の人たちも一緒に避難した。しばらく静けさが続いた後、急に爆音。しかしそれも何事もなく過ぎた。
と、突然、「グオン、グオン」と襲い掛かるような轟音が、淡水河のほうから迫ってくる。「ズキン、ズキン」と心臓に届く音。突如、「ズドン、ズドン」と今までまったく感じたことがない胸を締め付けられる重圧感。思わずみんなで手をつないでいた。地面の下を重機でえぐり取られているような感覚が、2、3秒ごとに迫ってくる。爆弾の塊が次々に投げ込まれているようで、山崩れが起きているのではないかと思えるほどだ。

元のわが家は跡形もなく崩れた

間断なく聞こえる爆弾の落下音。機銃掃射音も響いてくる。「次はこの上か!」と思わず両手を握り締めた。「B24爆撃機の飛行コースが200メートル南だったら、わが家一帯は火の海になり、跡形もなくなっていただろう、というより防空壕に入っていた私たちの命もなかった」と灘野さん。
ずっと後になって灘野さんは父から聞いた。当時、西門辺りで日本料理屋などが軒を連ね、唯一憩いの場として残っていた片倉通り(現・成都路27巷)には250キロ爆弾が落とされ、たくさんの人が亡くなった。その中には親しかった先輩もいた。
午後3時過ぎ、先刻までの轟音が遠退き、うそのように静まった時、「おお、生きていたのね!」とみんな思った。あちこちの防空壕から次々に出てきて、「長かったね」とホッと安堵の顔。極度の緊張が一気に緩んだ。
しかし、防空壕から出て驚いた。1ヵ月前まで住んでいた近くの元のわが家は直撃弾を受け、跡形もなく崩れ落ちていた。そこで父は「折り箱屋の嫁さんが疎開地に行くからお前も一緒にお母さんの所へ行け」と指示。考える間もなく登山用の大きなリュックに食糧などを詰め込んで灘野さんは出発した。

道端に筵(むしろ)を掛けた死体が幾つも……

萬華駅の方に向かう。レンガ造りの台湾民家も粉々に砕けている。暗くなるのに連れて、今まで気がつかなかったが、異臭が胸を突く。ひょっと見たら道端に筵(むしろ)が掛けられた死体が幾つもあった。本島(台湾)人だろう。歩いて行くうちに筵はどんどん増え、手を合わせたが、気持ちの届かぬような祈りだった。灘野さんたちは淡水河を渡り、板橋を経て三峡に向かう。何キロ歩いたのだろう。リュックの重みが肩に堪えた。でも一度座れば二度と立てなくなりそう。ふっと台北の方角を見ると、真っ暗な中で、12階建ての総督府が勢いよく燃え上がっていた。

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当時、唯一の憩いの場だった片倉通り。今は成都路27巷と名を変え、若者のメッカに。

「中の様子を想像するだけでつらく、悲しかったけれど、恐怖で涙も出ませんでした」。
灘野さんは途中で嫁さんと別れ、後は夜道を一人。母がいる疎開先は一度行っただけ。かすかな記憶を頼りに不安を抱えて歩き、畦道に入ると、遥か向こうにぼんやりと民家らしき明かり。ふと母の声がしたよう。「桂子ーッ、桂子ネ」。やはり母だ。胸が熱く、涙がこぼれそう。黒い布で囲ったロウソクの火でようやく顔が見えた。何から話したらいいのか……。おにぎりを手渡され、ただ、頬張る。「(父と)二人とも無事でよかった」。母も涙声だった。


敗戦で日本人は千円渡され帰国
米側の資料によると、米軍は空爆の目標を決めた精密な地図に基づいて台北大空襲を遂行した。地図は日本統治時代に英語教師として台北に住み、後の外交官となったジョージ・H・カーの助言で作成されたともいわれ、「空から見て灰色の屋根は日本家屋、赤はレンガの台湾家屋」と説明されていた。
しかし実際には「赤の台湾家屋」も多数、爆撃された。灘野さんと同じ新起町で父が印刷会社を経営していた王明星さん(83)の家も直撃弾を受けた。王さんは疎開して無事だったが、工場が全滅し、逃げ遅れた4人の工員が犠牲となったという。
台北大空襲から間もなく終戦になり、「敗戦国民」となった日本人は財産を没収され、一人千円だけ渡され、翌年にかけて日本に引き揚げた。灘野さん一家5人は昭和21年3月、基隆から船に揺られて、鹿児島に入港。頭からDDT(殺虫剤の一種)をかけられ、白い頭のまま露天で一個十円のゆで卵を買って食べた。「この先どうなるのかまったく考えも及ばなかった。ただ苦しさと切なさだけが十分身に染みた」と灘野さんは振り返る。


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日本の敗戦で国府軍が鍋釜担いで基隆港から上陸。(米軍公開資料)

取材・文:迫田勝敏

(2015年11月号掲載)

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