特集アーカイブ 1989年11月号より

半世紀ぶりの建直し 新しい玄関・台北駅

台灣の新しい玄関·台北新站(駅)が、この九月に完成し
た。この新駅とともに、台北市の繁華街を走っていた鉄道の部分の地下化工事も完成した。二の結果、台北駅を中心に、これまでかつての盛り場として斜陽視されていた西門町、中華路一帯が再開発の対象として再登場すると同時に、台北市交通網整備のー貫として、旧淡水線の地下鉄化などがクローズアツプされてくる。そうした点からみて、台北新駅の登場は、台湾の鉄路史上に大きな足跡を殘した。

交通史上に新足跡 - 6年の歳月 177億元の投資 -

九月二日午前六時二十八分。この時刻もまた台湾の鉄路史上に殘るはずである。新駅から発車した第ー号の列車。屏東行きだった。この列車を工事関係者は、どんな気持ちで見送ったろうか。新駅建設と地下化工事は台北市民の長い間の希望だった。地下化が行政院(內閣)で本決りとなったのがー九七九年である。しかし、この三十年前から多くの計画が出された、現状維持から移転、高架化など四十七ものプランがあった。新駅は総面積一万五千三百三口平方メートル。地上六階、地下四階。写真のように「中国人が設計し、つくった駅」という、シンボルであり、“中国味”がいっぱいだ。

駅ビルの三~六階は鉄路局が使う。二階は商店街。一階が切符売リ場で、プラットーホームは地下二階。地下一階は駐車場や地下街、待合室。地下の三、四階は新開発線路向けに当てられる。列車の発着の掲示板もコンピユーターで操作され、列車の発蒼状況がー目でわかる。新駅はー日十三万人前後の乗降客を含めて約二十万人の使用が見込まれている。

一方、地下化工事の第一段階は台北新駅をはさんで華山駅から萬華駅にいたる全長四・四二キロ。これが今度完成した部分である。第二段階は華山から松山までで、これは今後五年間で完成予定。さらに萬華と板橋間は現在の複線から複々線になるなど鉄路の拡充整備が見込れており、バスや飛行機に押されていた鉄道が、ひさしぶりに陽の目をみる。一九八三年七月の着工から数えて六年。新駅と第一次工事で総工費は百七十七億元(約一千億円)にのぼった。

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駅のデザインにあふれる中国感覚。中華民国の陸の玄関にふさわしい。

ところで、新駅が完成してお目出たい、とばかりいって、しれないのが鉄路管理局。毎年、駅や地下路線の管理費が三億元もかかるほか、商店街の家賃や駐車場料金、プラットーホームの広告などの収入増があるものの三階以上の駅ビル費用も大きく、昨年に比べて五億元も多い赤字予算を組まなければならない。日本と同じように、赤字の鉄路局にとって、頭の痛い問題となっている。

鉄道できて102年 台北駅改修3度目

台灣に初めて鉄道が建設されたのは一八八七年。清の光緒十三年、初代の劉銘伝巡撫が台湾に着任してからである。最初は基隆~新竹間に着手された。これが完成するのは六年後のー八九三年である。
日本の台灣統治はー八九五年からだから、その直前に完成した。その後一九○七年には高雄までの縦貫鉄道が完成している。

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1940年に改築された駅。約50年近くもご苦労様でした。

日本時代になって、台北駅は二度改修されている。ー九○ー年とー九四○年である。このー九四○年の駅がずっと四九年間使われてきた。
ついでながら、台北新駅から近い台湾省立博物館には、台灣の鉄道の創設期に走った機関車が陳列されており、マニアには見逃せない。もちろん蒸気機関車で二両ある。、うちー両はー八七七年につくられたドイツ製。中国大陸の最初の鉄道、上海~呉淞間を走った。基隆-新竹間で活躍、一九二四年に“引退”した。
もう一台は日本と関係が深い。一八七一年の英国製だが、翌七二年に“汽笛一声新橋のー“で有名な新橋-橫浜間を走った十両のうちのー両。台湾に持ち込まれて、一九二六年まで縦貫鉄道を走リ抜いた。

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よみがえるのか 西門町・中華路

鉄路の地下化によって、台北市の西の部分の繁華街にあった十三もの踏切りが姿を消した。台北市の交通の大きな障害のひとつに数えられたものがなくなったのである。昨近の台北市の交通混の現状からいえば、このプラスが大きい。
踏切りの維持費や待ち時間のためのロスが毎年七千万元余りもかかった、という教字もあるが、踏み切りで待つ間、ふかすガソリンの量や空気汚染などを計算に入れれば、損失はずっと多いはずである。

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西門町の傍を走っていた線路。撤去されてニューランドに。

いま関心が集まっているのは、地上路線の撤去で、新たに生れる土地十二
万九千平方メートルがどう利用されるか、である。六十七億四千八百万元の地価と
推計されている。このうち、商用地辷して三万平方メートルが予定されているが、残りは公園、広場、散歩道など公共用に使われるか、具体的計画が近く明らかになろう。
さらに、伝統の盛リ場·西門町の再開発もクローズアップされてきた。このところ、台北市は東ヘ東ヘと拡大し、これにつれて、商店街、デパート群も“東門町”と呼ばれる忠孝東路四段に集中してきた。
確かに西門町は、いまでも日曜日や祭日には三十万人もの人波を集めては
いる。しかし、町並みは古く、やぼったく、ナウいヤングたちの足が遠いているのも事実である。こんどの新駅の誕生や地下化をきっかけに再開発がピツチを上げはじめた。
さらに中華路の古めかしい「中華商場」も取リこわしが決っている。こうした潮の変化をとらえて、台北のマスコミは“西地区の第二の春”と報じた。果たして第二の春となるのかー

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