鹿児島で活躍するシングルマザー黄恭惠さん

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黄恭惠さん

新北市烏来出身・鹿児島市在住
仙巌園 海外営業マネジャー 51歳(1966年3月16日生まれ)

取材・文:吉岡桃太郎

台北の郊外にある温泉郷、烏來(ウーライ)。「台湾原住民」のタイヤル(泰雅)族の集落があり、そこで黄恭惠は生まれ、タイヤル族の文化に触れながら育った。高校を卒業後、大分の日本語学校で日本語を学び、拓殖大学に進学。その後、鹿児島出身の男性と知り合い、結婚して鹿児島に移り住んだ。離婚を経て、異境の地で女手一つで二人の子どもを育て、現在は鹿児島にある仙巌園(せんがんえん)で海外営業マネジャーを務め、鹿児島と台湾の交流にも力を入れている。

タイヤル族と過ごした烏來

「烏來」という地名は台湾原住民の「湯気の出る水」という意味の言葉「wulai」が語源で、日本統治時代に発音が近いこの漢字が当てられた。台北近郊にある温泉としては北投温泉と並んで人気があり、北投が硫黄泉で匂いがあるのに対し、烏來は弱アルカリ性炭酸泉のため無色無臭で、肌に優しいことから「美人湯」の異名を持つ。台北近郊からバスで1時間とかからず、台湾人だけでなく、外国人観光客も訪れる。

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温泉以外にも日本統治時代に木材運搬用に敷設され、後に観光用に転用されたトロッコ列車、烏來瀑布(滝)、その滝を空中で横切るロープウエー、山桜など観光資源も豊富にある。主に台湾北部から中部にかけて居住し、約8万人の人口を有する台湾原住民、タイヤル族の集落があることでも有名だ。黄恭惠の両親はここでタイヤル族の舞踊などが楽しめる劇場を友人と共同経営していたが、火事で全焼。その後、観光客向けの土産物屋を立ち上げたという。

曾祖父が森林や茶畑を開拓するために烏來に移住してきたということで、黄恭惠自身は台湾原住民ではない。だが、幼いころからタイヤル族と共に過ごし、「烏來小姐」(烏來の娘さん)のニックネームで親しまれ、学校の文化祭などではタイヤル族の民族衣装を身にまとい、タイヤル族の舞踊を披露していたという。「タイヤル族の皆さんは目が大きくて、歌が上手で、とっても陽気なんです。私の家族もそれに負けないぐらい陽気なんですよ」

観光業に就くため日本留学

烏來で外国人観光客に接する機会が多かったという黄恭惠は、日本語や英語に興味を示すようになり、学校を卒業したら観光関連の仕事をしたいという漠然とした夢を持つようになる。そして高校卒業時に日本への留学を決意。「環境にも恵まれ、両親のサポートもあったので、日本で人生の新たなスタートを切ることができたんです。両親にはとても感謝しています」その両親は現在、烏來で温泉旅館を経営している。

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黄恭惠が初めて足を踏み入れた日本の地は大分県だ。両親が誘惑の多い都会を嫌い、外国人が少なく勉強に専念できる地方の日本語学校を選んだ結果だといい、そこで一年ほど日本語を学んだ。そして東京の拓殖大学商学部に進学する。「ずっと東京に憧れていたのでうれしかったです」

大学卒業を控えた黄恭惠は、「もう少し日本で暮らしたかったので、両親に許可をもらって日本で就職活動をやりました」運良く台湾進出を計画していた企業が所有するホテルに就職でき、フロント係として第一線で日本の「おもてなし」を学ぶことになる。この時の経験が今でも役に立っているという。そしてホテルに勤めてから3年ほどたったころ、転機が訪れる。鹿児島出身の男性と知り合い、恋に落ちたのだ。

鹿児島へ移住後シングルマザーに

その男性と交際を始め、しばらくたってから両親の反対を押し切って結婚し、ホテルの仕事を辞めて一緒に鹿児島に移住した。二人の子宝に恵まれるが、悩み抜いた末、借金まみれになったという夫と離婚し、異郷の鹿児島で添乗員、翻訳、通訳など幾つもの仕事を掛け持ちし、女手一つで二人の子どもを育ててきた。「子どもたちが人並みの暮らしができるように頑張り、高校にも行かせました」異郷の地で仕事と母親を両立させることは並大抵のことではなかったはずだ。

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現在は仙巌園の海外営業マネジャーとして、自分で着付けした大島紬(つむぎ)の着物を着て台湾人観光客などの案内もしている。「運良く外国人観光客が増え、外国語のスタッフが必要だった仙巌園に委託社員として雇ってもらうことができました」現在は正社員となり、台湾で開催される旅行博などにも足を運び、鹿児島のアピールに力を入れている。また、鹿児島では日台交流の催しなどに積極的に参加し、台湾のアピールも忘れない。

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2015年8月8日に台風13号が台湾に上陸し、黄恭惠の生まれ故郷、烏來に甚大な被害をもたらした際には、会社の許可を得て仙巌園で故郷のために募金を募った。仕事を通して第二の故郷、鹿児島と生まれ故郷、台湾との架け橋として活躍しているのだ。「32年間ずっと留学中という気持ちで過ごしています。鹿児島と台湾の交流に少しでも役に立てればと思います」

(2017年6月号掲載)

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