台北日本人学校の歩み ―中―
反日感情に親はピリピリ、子はのんびり

 


台湾大学の校内で産声を上げた台北日本人学校は創立12年の昭和34(1959)年、台湾大学を出て、市中心に近い厦門(アモイ)街に移転した。時は蔣介石総統の全盛時代で戒厳令下。街には「反攻大陸」のスローガンがあふれ、台湾の学校では反日教育も行われていたが、日本との関係は決して悪くはなかった。だがそれでも時にブワーッと反日感情が噴き出し、児童を預かる日本人学校の先生たちは神経を尖らせた。


初の自分たちの校舎、厦門街の民家の庭で運動会
厦門街への移転は生徒数の減少も原因の一つ。最後の引き揚げ船が出た1949年8月には留用者も高坂校長ら数人だけになった。1947年の二二八事件に続く戒厳令施行、言論統制や当局による不当逮捕などの白色テロも日本人の帰還を早めた。その結果、日本人学校は小中学生合わせても十数人に激減、中学部を廃止し、民家を借りて再出発することになった。
生徒数が減り続けた1950年代、孤軍奮闘したのが大井芳枝先生(平成9年没)だ。後に日本人学校の先生になった台湾人の林寛宏さん(85歳)によると、大井先生は多くても10人程度だった小学生を一手に引き受け、「部屋の中を幾つかに仕切って学年別の複式授業をしていた」という。
大井先生はクリスチャン。「日本女性の伝統を受け継いだ人で、なんでも出来る人。教科書も手作りと話していました。使命感の強い人なんです」と姪の大井好子さん。戦前の台湾、それも当時は高砂族と呼ばれた原住民が多い花蓮に若い女性が単身で赴いた。確かに使命感がなければできることではない。偶然、高坂校長とは山形県鶴岡市の小学校の同級生という縁で日本人学校に招かれ、厦門街移転後まで小学生の指導に当たった。
厦門街は初の自分たちの校舎だ。大使館からは日の丸が贈られた。教師も前述の林先生、後に梅田ハツイ先生(82歳)=米国在住=も加わり、テニスコート半分ぐらいの庭で梅田先生の号令でラジオ体操、父兄も加わり運動会もした。ようやく学校らしくなった。

圖說日本人学校 林寛宏

日本人学校-林寛宏
日本人学校で教師を務めた台湾人、林寛宏さん。

周鴻慶事件(※)で窓に投石、壁に落書き
その時、事件が起きた。昭和38(1963)年10月の周鴻慶事件だ。政府が激しく対日批判し、台湾人の対日感情は悪化。当時、梅田先生は学校の2階に住んでいたが、「窓に石を投げられ、壁には落書きされ、怖かった」。
事件で憲兵が学校に詰めるようになったが、生徒への投石が起きたら大ごとだ。1週間ほど臨時休校し、その間、先生たちが生徒の家を巡回して勉強の指導をしたが、厦門街の校舎の前は一方通行。もしもの時に不便。安全な場所を求めて翌年、敦化南路に引っ越した。
事件の最中、面白いエピソードがある。庭で生徒たちがドッジボールをしていた。開け放しの校門の前を台湾の男子生徒が行ったり来たり。「入ってきたら……」と心配だ。そこで林先生が男の子たちに聞くと、近くの台湾の中学生で、女生徒のブルマー姿が珍しいのだという。台湾の女生徒はみんなズボンだ。「中に入って見ろ」と林先生。そして「ドッジボールの試合をやるか?」と誘うと「やるーっ!」。後日、試合をした。台湾中学生チームは日本女子小学生チームにボロ負け。それっきり中学生たちは来なくなった。
今どき、こんなことをすれば、父兄から大非難だろう。「台湾の人の心は政府が言うほど反日じゃないですよ」と林先生。台湾人だから言えることだ。台湾には戦後、蔣介石と台湾に移ってきた少数派の外省人と戦前から台湾に住む多数派の本省人がいる。本省人には親日が多いが、外省人はそうでもない。戦後初めての反日運動となった周鴻慶事件で台湾に住む多くの日本人は全台湾人が「反日」だと思ったのかもしれない。

※周鴻慶事件:昭和38(1963)年10月、中国訪日団の通訳として来日した周鴻慶がソ連への亡命を表明、その後、亡命先を台湾(中華民国)に変更。中華民国は周引き渡しを要求したが、日本は翌年、中国への配慮もあり、周が亡命表明を取り消したとして中国に送還した。中華民国は大使を召還するなど激しく抗議、国交断絶の危機に瀕し、日本側は翌年、吉田元首相を特使として台湾慰撫に努めた。

敦化南路校2
敦化南路の校舎。

日台断交(※)、学校に警備兵派遣、2週間の臨時休校
その日本批判が最高潮に達したのが、昭和47(1972)年の日台断交だ。学校は昭和44(1969)年に松山福徳街に移転していた。敦化南路移転当時、生徒数は30人ほど。それが松山移転直前に100人を超え、中学部を再開し、手狭になったためである。その移転から3年後に断交。当時、小中学生合わせて300人を超す大所帯だった。
日台断交は中国の国連加盟時から予想されたことだ。親日台湾人の間でも「日本は台湾を棄てるのか」と怒りの声が上がった。日本人学校の生徒が買い物に行くと「狗(いぬ)が来た」と店にいた人たちが話すという光景も見られた。「周鴻慶事件の時のように投石だけでは済まないかもしれない」。心配は膨らんだ。
当時の加覽尚芳校長(平成11年没 )は日本人学校50周年記念誌に「今だから話せる『杞憂』」と題して台湾の高官になっていた台湾人戦友に相談して断交で暴動が起きた時、日本人学校の対応などを決めたと書いている。日本人学校の校歌の作詞者(作曲は小林亜星)でもある影山亘教頭(平成13年没)の夫人、高子さん(87歳)=大阪府在住=は「影山は『心配したけれど何もなくて、うまくいった』と話していた」という。実際、暴動も起こらず、日本人学校に投石もなかった。
まさに杞憂に終わったのは「台湾側の配慮で学校の安全が保たれたからでもある」と当時の中村慎吾先生(85歳)=広島県在住=はいう。断交前の9月、田中角栄首相の訪中などの説明のため訪台した椎名特使は空港で学生たちに卵をぶつけられた。そのせいか、銃を持った警備兵が学校に配属され、警備に当たった。大使館は「外出自粛」の通知。結局、学校は臨時休校。休校は2週間になり、その間、先生たちはタクシーやバスで家庭を回り、補習を続けた。
しかし子どもたちは事態をそれほど深刻には感じていなかった。「別に怖い思いもしなかったし、暮らしも普通でしたよ」と当時中学生だった森田房樹さん(56歳)=大阪在住=は振り返る。前述の影山高子さんが「政治の動きはあったけれど、政治は雲の上のことだと実感した」というように日台間では民間の絆が強かったのだろう。それは今もいえることだ。

※日台断交:1971年の国連総会で中国の加盟が認められ、それまで議席のあった中華民国(台湾)は議席を失い、国連脱退。中国の国連加盟で主要国は中国と国交を結び、日本も72年9月に日中国交正常化したが、台湾は即時、日本と断交。しかし日台関係継続のために事実上の大使館機能を果たす日本は交流協会、台湾は亜東関係協会をそれぞれ設立し、今日に至っている。


関連年表

昭和34年(1959)
4月 厦門街に校舎移転、校名を台北日本人小学校に改称
昭和38年(1963)
10月 周鴻慶事件
昭和39年(1964)
2月 敦化南路に校舎移転
10月 東京オリンピック開催
昭和40年(1965)
4月 文部省が教官1名を初派遣(福岡教育大付属小の谷口教諭)
9月 「在中華民国日本国大使館附属台北日本人小学校」に改名高坂知武校長が退任し、中田豊千代公使が第2代校長就任
昭和41年(1966)
5月 中国で文化大革命始まる
昭和42(1967)
9月 佐藤栄作首相台湾訪問
昭和44(1969)
5月 松山区福徳街に校舎移転
昭和46(1971)
10月 中国国連加盟、中華民国(台湾)国連脱退
昭和47(1972)
9月 日台断交。日本人学校は約2週間臨時休校
12月 東京に交流協会、台北に亜東関係協会を設立
昭和48年(1973)
1月 台北市から「私立台北市日僑学校」として認可
昭和50年(1975)
4月 蔣介石死去


(2017年1月号掲載)

 

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