台北日本人学校の歩み ―下―
身に付いた国際感覚で世界に羽ばたけ


 海外の日本人学校の特色はクラスメート間の結束が固いことだろう。5月に創立70周年を迎える台北日本人学校も例外ではない。多感な少年少女たちが異国で一緒に学び、遊ぶことで絆が強まり、友情が深まるのか。加えて平均的日本人よりは総じて国際性豊か。そのせいだろうか、卒業後、海外で活躍する人が多いようにみえる。それは海外の日本人学校生に共通する特色なのかもしれない。国際化の世界で何よりも求められる人材ではないか。


異国の地、クラスメート間の絆は強く、友情は深まる
昨年秋、台北のホテルのロビーで日本人の中年男女8人がにぎやかに談笑していた。男女のカップルかと思ったが、そうではなさそう。聞いてみると、「台北日本人学校の同級生です。みんな60歳になった記念に昔の学校を見に来たんです」と奈良市から来た近藤正明さんが話してくれた。
と言っても近藤さんらが通学した昭和40年代前半と今の台北市とでは街並みが大きく変わっている。当時の建物もあまり残っていないだろう。近藤さんらは地図と記憶を頼りに探して歩いた。民家を改造した敦化南路校舎は、コンビニになっていた。隣の教会が残っていたのでわかった。松山校舎は岩山が目印だったが、付近は一変し、巨大なマンション群になっていた。
「岩山には墓場があり、大雨が降ると、よく遺骨が校庭に流れ出てきた」と近藤さん。「映画館で映画を見るとき、最初は観客全員が立ち上がって国家斉唱したね」、「通学はみんなマイカーかタクシー。遊ぶときもタクシーで友達の家に集まって遊んだ」――台湾人の林寛宏先生を招いた昼食会では話しは尽きない。

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同窓会会長の森田房樹さん。

近藤さんのクラスは1学年1クラスで15人前後。学年が変わってもクラスは変わらなかった。異国の地だけにクラスメートとの間は兄弟のような近さになる。卒業後、日本に帰ってからもよくクラス会を開いた。特に学生時代。社会人になり、家庭を持つようになってからも数年置きに「集まらないか!」と誰かが声を出し、東京、大阪、横須賀、千葉――全国から集まる。今回は還暦いを兼ねての初の海外クラス会となった。

 

かつて日本人学校があった場所は、
現在ではすっかり様変わりしている。

 

 

創立50周年同窓会に李登輝総統から揮毫(きごう)
70年の歴史がありながら、合同同窓会はたった一度だけだ。創立50周年記念の1997年7月、東京のホテルで開いた。発起人は同窓会会長になった大阪の森田房樹さん(56歳)ら有志。3年前から準備、中でも大変だったのが、名簿作りだった。日本国内の学校と違って海外の日本人学校の先生方は3、4年で転勤、10年、20年勤続という人はいないせいか、同窓会そのものがなかった。
人づて、口づてで、在籍したが卒業していない生徒も含めて集めた名前は、4000人を超えたという。今なら台北日本人学校で学んだ人は1万人に近いかもしれない。その中で事務局長の阿部義宣さん(53歳)=新潟県在住=が、名簿や記念誌作りに没頭した。李登輝総統にも直接手紙を出したところ、なんと揮毫を送ってきてくれた。これは今は校長室に飾られている。そんな奮闘努力が実って当日は280人が日本各地から集まった。先生方も十数人駆け付けてくれた。

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天母にある現在の台北日本人学校。

「70周年の今年も……」という声も出ているが、学校の協力が不可欠。その学校は新校舎建築事業で多忙な状況。重山史朗校長(58歳)は資金集めから地主である台湾銀行等との話し合いや基本計画作成などで大忙し。移転しないで、授業を続けながら建て替える予定なので計画づくりも難しい。ということで「新校舎が完成する5年後、新校舎落成記念とともに75周年記念事業ができればと考えています」と重山校長はいう。

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創立50周年の1997年、当時の生徒で作られた人文字。

異文化受け入れる日本人学校にほぼイジメなし
その重山校長は宮崎県で校長を務め、昨年4月の着任。それまで「東京より近いのに、台湾といってもバナナぐらいしか知らなかった」が、暮らしてみると「みんな親切で、世界一住みやすい」。しかも生徒たちは「学力は高いし、国際感覚が自然と身に付いている。社会に出てからは外国で仕事をしている人が多い感じ。自分の意見をはっきり言える子が多い。外国人と十分付き合えますね。質問は?と聞くと、すぐに何人もの手が挙がる。国内の学校ではそんなことは少ないです。素直でイジメはほとんどない。転校生をやさしく受け入れる」と高い評価だ。
確かに50周年制作の同窓会名簿を見ると、住所が海外という人が多い。企業派遣、国際結婚、留学、さらには起業……。この連載の(上)で紹介した台北日本人学校の第1期生の立石昭三さん(81歳)は帰国後、感染症の専門医になったが、国内ではなく、カンボジア、ネパール、スリランカ、中国を回り、活躍した。
その立石さんは実は「引き揚げ者には日本は住みにくかった」という。「日本は一つの文化しか知らない。今の時代、それでいいのか」とも。つまり、異文化を受け入れないということだろう。同窓会事務局長の阿部さんの弟さんは帰国後、台湾帰りであるということでイジメを受け、不登校になったという。台湾への偏見。逆カルチャーショックだ。日本人学校にはそれがない。
久松光宏さん(38歳)は母親が台湾人。「小学1年生の時、日本語はもう少しだったけれど、イジメはなかった。楽しく、幸せだった」。日本で中学を卒業、大学は米国。「日本、米国、台湾の三つの文化に接して、日本の良さ、悪さがわかった」。今は台湾に落ち着き、台湾の友人とマリーンスポーツウェアなどの貿易会社を立ち上げ、台湾を拠点に米中間を行き来、三つの文化を受け入れて活躍している。

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日米台の三つの文化を受け容れる久松さん。

日本を拠点に国際的な活動をしているのは寺田真美さん(49歳)。父が宣教師だったため、台北と台中の二つの日本人学校に通った。台北では俳優の金城武さんの一つ年下にいて遊び仲間。台北校からはほかに石田ゆり子、石田ひかる姉妹というタレントも出ている。寺田さんは帰国後、会社員になったが、28歳で脱サラ、劇団四季に入った。13年後、プロのミュージカル俳優や作曲家らと「心魂(こころだま)プロジェクト」を設立、劇場に行けない難病の子どもたちや養護施設に本物のパフォーマンスを届ける活動を始めた。日本各地だけでなく、今ではアジア各地にも目を向け、台北日本人学校にも足を運んだ。
立石さん、久松さん、寺田さん――日本人学校育ちの頭の中には「国境」はほとんどないのかもしれない。(完)

 


関連年表

昭和47年(1972)
9月 日本、台湾国交断絶
昭和57年(1982)年
12月 台北市から台湾銀行所有地(士林)上に新校舎建築の許可
昭和58年(1983)
10月 新校舎(士林区中山北路)に移転、11月に落成式
昭和63年(1988)
1月 蔣経国総統死去、李登輝総統就任
平成4年(1992)
亜東関係協会東京弁事処が台北駐日経済文化代表処に改称
平成8年(1996)
3月 台湾初の総統直接選挙で李登輝総統が当選、中国が台湾近海にミサイル試射
平成9年(1997)
台北日本人学校創立50周年
平成10年(1998)
11月 さだまさしコンサート
平成15年(2003)
7月 SARS大流行、WHOが台湾の感染地域指定を解除
平成19年(2007)
6月 トリノ五輪フィギュアスケート金メダリスト、荒川静香来校
平成20年(2008)
6月 台湾の遊漁船と日本の海上保安庁の巡視船が衝突、聯合号沈没
平成23年(2011)
3月 東日本大震災で台湾から200億円を超える義捐金
平成28年(2016)
1月 交流協会が「日本台湾交流協会」に名称変更


(2017年2月号掲載)

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