日本人学校の歩み

短期連載特別企画 台北日本人学校70周年

台北日本人学校の歩み ―上―
日本人学校は「魂の揺り籠」だった

取材・文:迫田勝敏 /写真提供:台北日本人学校


台北日本人学校が来年5月で創立70周年を迎える。学校では記念行事を予定していないが、卒業生たちは在校したそれぞれの時代に思いをはせ、懐かしみ、すでになくなった母校跡地を探しに訪台する人たちもいる。台北日本人学校の生徒や先生だった人たちの証言から日本人学校の70年の歩みを3回連載で振り返る。


日本人子弟のために小中学校開設

「世界には89の日本人学校があり、台北は生徒数では7番目」と文科省国際教育課はいう。「学校の歴史としては26番目に長い」とも。その歴史は昭和22(1947)年5月に始まる。もっとも当時の校名は「国立台湾大学附設留台日籍人員子女教育班」(通称、学習所)。台湾大学(以下、台大)が付属教育施設として開設したもので、日本大使館も文科省(当時は文部省)も関係ない。そのため関係者の中には「学習所を台北日本人学校の起源とするのはおかしい」という指摘もある。
学習所には「前史」がある。戦後、敗戦国民となった台湾の日本人は60万人近くいた。軍人を除くと30数万人。中国から乗り込んできた中華民国政府は台湾経営のため、日本人の学者、技師、役人たちを台湾に留めて仕事を継続させ、留用した。家族を含めると、3万人近い。留用(※)となった人たちの子弟のため、中華民国は旧台北第3中学に台湾省立和平中学校と輔仁小学校を開設した。留用と引き換えに学校を作ったことになる。生徒数は、数千人という。

 

※留用:新政府が旧政府の職員をそのまま留めて雇用することで、戦後、中国や台湾で多数の日本人が中国、台湾に留用された。台湾では戦後間もなく、軍人の帰還が始まり、1946年からは留用者を除く民間人の引き揚げも始まった。1947年までに留用者を含めた大部分の日本人は帰国した。

 

 

臺大
現在の台湾大学

  
スタートは独身寮の一室、30人足らずで

ところが1947年2月に台湾当局が台湾人らを大量虐殺した二二八事件(※)が起きて残留日本人も多くが引き揚げ、和平、輔仁両校は運営不能になり、閉鎖。それでも留用で残ったわずかな台大教授らの子弟の教育をどうするかが、問題になった。そこで残った台大教授らが大学と掛け合って、附属施設として大学の独身寮の一室を借りて、台大からの委託という形で学習所が発足した。生徒数は小中学合わせて30人弱だった。
発足といっても日本から派遣の先生も教材も何もない。台大教授らがボランティアで教師を務めた。その顔触れ。事実上の校長は高坂知武(名目上は台湾人教授が校長)。農業機械が専門の教授だが、子どもたちには英語や物理を教えた。台湾の農業発展に貢献し、台大は「知武」の名を冠した校舎を建て、記念室も設置した。図工は立石鉄臣。油彩画家で特に細密画は有名。その夫人、寿美(99歳)=東京都在=も「ちょっと裁縫を教えました」。数学は一時、台大助教授の郭和夫が教えた。中国の文学者、郭沫若の長男で、当時、日本人の母と台北に住んでいた。家畜繁殖学の山根甚信は理科担当。その娘、山根敏子は英語を教え、後に日本初の女性外交官となった。ある夫人はオルガンがあるからと自宅で音楽の授業もした。教授らが総出で手作りで日本人学校を動かした。
台湾大学の校長も日本人学校の名目上の校長も日本留学経験があり、留用の日本人教授に中に知り合いもいた。ぜひとも日本の力を借りたいという台湾の知日派の願いと、台湾の戦後復興に何とか貢献したいという日本人留用者の熱い思いが日本人学校を生んだといえる。

※二二八事件:1947年2月27日夕、台北市内でヤミたばこ売りの女性が取締官に摘発され、殴打されたことで民衆が騒ぎ、取締官の発砲で市民が死亡、それを契機に市民の抗議デモが全台湾で発生、それに対する弾圧も広がり、死者は2万人以上。背景には戦前から台湾に住む本省人の中国から乗り込んできた外省人に対する不満があったという。台湾現代史の原点ともいえる。

3
民家を借りた廈門街校舎。

台湾大教授が研究室や自宅を開放して教えた

大学の独身寮の一室を借りたとはいっても教室は狭い。小学生はそこで、複式授業(二つ以上の学年を一つにして行われる授業)。中学生の教室は教授の研究室や自宅。授業ごとに研究室や教授宅を渡り歩いた。教科書は手作りで「専門家が子どもにわかるようにかみ砕いて教えてくれた」と立石昭三(81歳)=京都市在住=。高野秀夫(85歳)=船橋市在住=は「幅広い見識と人格で私たちに学問や芸術への憧れを導き出してくれた」。授業料なし、入学式も運動会もなし。しかし生徒たちは台大の広いキャンパスを自由に遊び回っていた。
開校直前に起きた二二八事件だったが、生徒たちには深い印象が残る、高野は自転車で市の中心街に見に行った。「何もなかったが、機関銃を撃ちながらトラックが走ってきたので慌てて柱の陰に隠れた」という。立石は処刑を見た。「うちわを背中に差して何人も縛られて連行され、交差点でモーゼル銃で撃たれていた。外省人が日本人の家に逃げ込んできたと何人かから聞いた」。本省人は外省人とみればすぐに殴りかかる。日本人の家なら本省人も襲ってこないとみて逃げ込んだのだ。実際、高坂校長の家には外省人ではないが「隣のドイツ人女性が逃げ込んできた」と高坂の長女、玲子(83歳)=米国在住=は言う。女性の夫は外省人。だから危険を感じたのだろう。隣家なのに帰ろうとせず、かなり長期間居座ったという。
一夜にして敗戦国民になり、留用、二二八の銃声、引き揚げ……と激動の時代。多感な少年少女たちはどう過ごしたのだろうか。当時中学生だった立石はいう。「苦労したという思いなんかない。あの時代は魂の揺り籠のような時代。今、思い出しても楽しい」


関連年表

昭和20年(1945)
8月 終戦
昭和21年(1946)
2月  民間人の引き揚げ事業始まる
4月 台湾省立和平中学校、輔仁小学校(旧台北三中)
昭和22年(1947)
2月 二二八事件
5月 国立台湾大学附設留台日籍人員子女教育班開校(温州街)
昭和24年(1949)
8月 中学部を閉鎖
8月 最後の邦人引き揚げ送還船出港
10月中華人民共和国成立、蔣介石父子、重慶から台北に移る
昭和25年(1950)
6月 朝鮮戦争勃発(53年7月休戦)
昭和26年(1951)
2月 国立台湾大学校内(羅斯福路)に移転
昭和27年(1952)
4月 日華平和条約台北で調印
昭和28年(1953)
5月 中学部を開設、台北日本人小・中学校と改称
昭和32年(1957)
10月 ソ連、人工衛星スプートニク1号打ち上げ成功
昭和33年(1958)
3月 中学部を閉鎖
昭和34年(1959)
4月 校名を台北日本人小学校に改称、厦門街に移転
4月 皇太子明仁殿下、正田美智子さんとご成婚


(2016年12月号掲載)

つづく

 

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