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台北日本人学校の歩み ―下―
身に付いた国際感覚で世界に羽ばたけ


 海外の日本人学校の特色はクラスメート間の結束が固いことだろう。5月に創立70周年を迎える台北日本人学校も例外ではない。多感な少年少女たちが異国で一緒に学び、遊ぶことで絆が強まり、友情が深まるのか。加えて平均的日本人よりは総じて国際性豊か。そのせいだろうか、卒業後、海外で活躍する人が多いようにみえる。それは海外の日本人学校生に共通する特色なのかもしれない。国際化の世界で何よりも求められる人材ではないか。


異国の地、クラスメート間の絆は強く、友情は深まる
昨年秋、台北のホテルのロビーで日本人の中年男女8人がにぎやかに談笑していた。男女のカップルかと思ったが、そうではなさそう。聞いてみると、「台北日本人学校の同級生です。みんな60歳になった記念に昔の学校を見に来たんです」と奈良市から来た近藤正明さんが話してくれた。
と言っても近藤さんらが通学した昭和40年代前半と今の台北市とでは街並みが大きく変わっている。当時の建物もあまり残っていないだろう。近藤さんらは地図と記憶を頼りに探して歩いた。民家を改造した敦化南路校舎は、コンビニになっていた。隣の教会が残っていたのでわかった。松山校舎は岩山が目印だったが、付近は一変し、巨大なマンション群になっていた。
「岩山には墓場があり、大雨が降ると、よく遺骨が校庭に流れ出てきた」と近藤さん。「映画館で映画を見るとき、最初は観客全員が立ち上がって国家斉唱したね」、「通学はみんなマイカーかタクシー。遊ぶときもタクシーで友達の家に集まって遊んだ」――台湾人の林寛宏先生を招いた昼食会では話しは尽きない。

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同窓会会長の森田房樹さん。

近藤さんのクラスは1学年1クラスで15人前後。学年が変わってもクラスは変わらなかった。異国の地だけにクラスメートとの間は兄弟のような近さになる。卒業後、日本に帰ってからもよくクラス会を開いた。特に学生時代。社会人になり、家庭を持つようになってからも数年置きに「集まらないか!」と誰かが声を出し、東京、大阪、横須賀、千葉――全国から集まる。今回は還暦いを兼ねての初の海外クラス会となった。

 

かつて日本人学校があった場所は、
現在ではすっかり様変わりしている。

 

 

創立50周年同窓会に李登輝総統から揮毫(きごう)
70年の歴史がありながら、合同同窓会はたった一度だけだ。創立50周年記念の1997年7月、東京のホテルで開いた。発起人は同窓会会長になった大阪の森田房樹さん(56歳)ら有志。3年前から準備、中でも大変だったのが、名簿作りだった。日本国内の学校と違って海外の日本人学校の先生方は3、4年で転勤、10年、20年勤続という人はいないせいか、同窓会そのものがなかった。
人づて、口づてで、在籍したが卒業していない生徒も含めて集めた名前は、4000人を超えたという。今なら台北日本人学校で学んだ人は1万人に近いかもしれない。その中で事務局長の阿部義宣さん(53歳)=新潟県在住=が、名簿や記念誌作りに没頭した。李登輝総統にも直接手紙を出したところ、なんと揮毫を送ってきてくれた。これは今は校長室に飾られている。そんな奮闘努力が実って当日は280人が日本各地から集まった。先生方も十数人駆け付けてくれた。

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天母にある現在の台北日本人学校。

「70周年の今年も……」という声も出ているが、学校の協力が不可欠。その学校は新校舎建築事業で多忙な状況。重山史朗校長(58歳)は資金集めから地主である台湾銀行等との話し合いや基本計画作成などで大忙し。移転しないで、授業を続けながら建て替える予定なので計画づくりも難しい。ということで「新校舎が完成する5年後、新校舎落成記念とともに75周年記念事業ができればと考えています」と重山校長はいう。

〇一文字
創立50周年の1997年、当時の生徒で作られた人文字。

異文化受け入れる日本人学校にほぼイジメなし
その重山校長は宮崎県で校長を務め、昨年4月の着任。それまで「東京より近いのに、台湾といってもバナナぐらいしか知らなかった」が、暮らしてみると「みんな親切で、世界一住みやすい」。しかも生徒たちは「学力は高いし、国際感覚が自然と身に付いている。社会に出てからは外国で仕事をしている人が多い感じ。自分の意見をはっきり言える子が多い。外国人と十分付き合えますね。質問は?と聞くと、すぐに何人もの手が挙がる。国内の学校ではそんなことは少ないです。素直でイジメはほとんどない。転校生をやさしく受け入れる」と高い評価だ。
確かに50周年制作の同窓会名簿を見ると、住所が海外という人が多い。企業派遣、国際結婚、留学、さらには起業……。この連載の(上)で紹介した台北日本人学校の第1期生の立石昭三さん(81歳)は帰国後、感染症の専門医になったが、国内ではなく、カンボジア、ネパール、スリランカ、中国を回り、活躍した。
その立石さんは実は「引き揚げ者には日本は住みにくかった」という。「日本は一つの文化しか知らない。今の時代、それでいいのか」とも。つまり、異文化を受け入れないということだろう。同窓会事務局長の阿部さんの弟さんは帰国後、台湾帰りであるということでイジメを受け、不登校になったという。台湾への偏見。逆カルチャーショックだ。日本人学校にはそれがない。
久松光宏さん(38歳)は母親が台湾人。「小学1年生の時、日本語はもう少しだったけれど、イジメはなかった。楽しく、幸せだった」。日本で中学を卒業、大学は米国。「日本、米国、台湾の三つの文化に接して、日本の良さ、悪さがわかった」。今は台湾に落ち着き、台湾の友人とマリーンスポーツウェアなどの貿易会社を立ち上げ、台湾を拠点に米中間を行き来、三つの文化を受け入れて活躍している。

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日米台の三つの文化を受け容れる久松さん。

日本を拠点に国際的な活動をしているのは寺田真美さん(49歳)。父が宣教師だったため、台北と台中の二つの日本人学校に通った。台北では俳優の金城武さんの一つ年下にいて遊び仲間。台北校からはほかに石田ゆり子、石田ひかる姉妹というタレントも出ている。寺田さんは帰国後、会社員になったが、28歳で脱サラ、劇団四季に入った。13年後、プロのミュージカル俳優や作曲家らと「心魂(こころだま)プロジェクト」を設立、劇場に行けない難病の子どもたちや養護施設に本物のパフォーマンスを届ける活動を始めた。日本各地だけでなく、今ではアジア各地にも目を向け、台北日本人学校にも足を運んだ。
立石さん、久松さん、寺田さん――日本人学校育ちの頭の中には「国境」はほとんどないのかもしれない。(完)

 


関連年表

昭和47年(1972)
9月 日本、台湾国交断絶
昭和57年(1982)年
12月 台北市から台湾銀行所有地(士林)上に新校舎建築の許可
昭和58年(1983)
10月 新校舎(士林区中山北路)に移転、11月に落成式
昭和63年(1988)
1月 蔣経国総統死去、李登輝総統就任
平成4年(1992)
亜東関係協会東京弁事処が台北駐日経済文化代表処に改称
平成8年(1996)
3月 台湾初の総統直接選挙で李登輝総統が当選、中国が台湾近海にミサイル試射
平成9年(1997)
台北日本人学校創立50周年
平成10年(1998)
11月 さだまさしコンサート
平成15年(2003)
7月 SARS大流行、WHOが台湾の感染地域指定を解除
平成19年(2007)
6月 トリノ五輪フィギュアスケート金メダリスト、荒川静香来校
平成20年(2008)
6月 台湾の遊漁船と日本の海上保安庁の巡視船が衝突、聯合号沈没
平成23年(2011)
3月 東日本大震災で台湾から200億円を超える義捐金
平成28年(2016)
1月 交流協会が「日本台湾交流協会」に名称変更


(2017年2月号掲載)

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台北日本人学校の歩み ―中―
反日感情に親はピリピリ、子はのんびり

 


台湾大学の校内で産声を上げた台北日本人学校は創立12年の昭和34(1959)年、台湾大学を出て、市中心に近い厦門(アモイ)街に移転した。時は蔣介石総統の全盛時代で戒厳令下。街には「反攻大陸」のスローガンがあふれ、台湾の学校では反日教育も行われていたが、日本との関係は決して悪くはなかった。だがそれでも時にブワーッと反日感情が噴き出し、児童を預かる日本人学校の先生たちは神経を尖らせた。


初の自分たちの校舎、厦門街の民家の庭で運動会
厦門街への移転は生徒数の減少も原因の一つ。最後の引き揚げ船が出た1949年8月には留用者も高坂校長ら数人だけになった。1947年の二二八事件に続く戒厳令施行、言論統制や当局による不当逮捕などの白色テロも日本人の帰還を早めた。その結果、日本人学校は小中学生合わせても十数人に激減、中学部を廃止し、民家を借りて再出発することになった。
生徒数が減り続けた1950年代、孤軍奮闘したのが大井芳枝先生(平成9年没)だ。後に日本人学校の先生になった台湾人の林寛宏さん(85歳)によると、大井先生は多くても10人程度だった小学生を一手に引き受け、「部屋の中を幾つかに仕切って学年別の複式授業をしていた」という。
大井先生はクリスチャン。「日本女性の伝統を受け継いだ人で、なんでも出来る人。教科書も手作りと話していました。使命感の強い人なんです」と姪の大井好子さん。戦前の台湾、それも当時は高砂族と呼ばれた原住民が多い花蓮に若い女性が単身で赴いた。確かに使命感がなければできることではない。偶然、高坂校長とは山形県鶴岡市の小学校の同級生という縁で日本人学校に招かれ、厦門街移転後まで小学生の指導に当たった。
厦門街は初の自分たちの校舎だ。大使館からは日の丸が贈られた。教師も前述の林先生、後に梅田ハツイ先生(82歳)=米国在住=も加わり、テニスコート半分ぐらいの庭で梅田先生の号令でラジオ体操、父兄も加わり運動会もした。ようやく学校らしくなった。

圖說日本人学校 林寛宏

日本人学校-林寛宏
日本人学校で教師を務めた台湾人、林寛宏さん。

周鴻慶事件(※)で窓に投石、壁に落書き
その時、事件が起きた。昭和38(1963)年10月の周鴻慶事件だ。政府が激しく対日批判し、台湾人の対日感情は悪化。当時、梅田先生は学校の2階に住んでいたが、「窓に石を投げられ、壁には落書きされ、怖かった」。
事件で憲兵が学校に詰めるようになったが、生徒への投石が起きたら大ごとだ。1週間ほど臨時休校し、その間、先生たちが生徒の家を巡回して勉強の指導をしたが、厦門街の校舎の前は一方通行。もしもの時に不便。安全な場所を求めて翌年、敦化南路に引っ越した。
事件の最中、面白いエピソードがある。庭で生徒たちがドッジボールをしていた。開け放しの校門の前を台湾の男子生徒が行ったり来たり。「入ってきたら……」と心配だ。そこで林先生が男の子たちに聞くと、近くの台湾の中学生で、女生徒のブルマー姿が珍しいのだという。台湾の女生徒はみんなズボンだ。「中に入って見ろ」と林先生。そして「ドッジボールの試合をやるか?」と誘うと「やるーっ!」。後日、試合をした。台湾中学生チームは日本女子小学生チームにボロ負け。それっきり中学生たちは来なくなった。
今どき、こんなことをすれば、父兄から大非難だろう。「台湾の人の心は政府が言うほど反日じゃないですよ」と林先生。台湾人だから言えることだ。台湾には戦後、蔣介石と台湾に移ってきた少数派の外省人と戦前から台湾に住む多数派の本省人がいる。本省人には親日が多いが、外省人はそうでもない。戦後初めての反日運動となった周鴻慶事件で台湾に住む多くの日本人は全台湾人が「反日」だと思ったのかもしれない。

※周鴻慶事件:昭和38(1963)年10月、中国訪日団の通訳として来日した周鴻慶がソ連への亡命を表明、その後、亡命先を台湾(中華民国)に変更。中華民国は周引き渡しを要求したが、日本は翌年、中国への配慮もあり、周が亡命表明を取り消したとして中国に送還した。中華民国は大使を召還するなど激しく抗議、国交断絶の危機に瀕し、日本側は翌年、吉田元首相を特使として台湾慰撫に努めた。

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敦化南路の校舎。

日台断交(※)、学校に警備兵派遣、2週間の臨時休校
その日本批判が最高潮に達したのが、昭和47(1972)年の日台断交だ。学校は昭和44(1969)年に松山福徳街に移転していた。敦化南路移転当時、生徒数は30人ほど。それが松山移転直前に100人を超え、中学部を再開し、手狭になったためである。その移転から3年後に断交。当時、小中学生合わせて300人を超す大所帯だった。
日台断交は中国の国連加盟時から予想されたことだ。親日台湾人の間でも「日本は台湾を棄てるのか」と怒りの声が上がった。日本人学校の生徒が買い物に行くと「狗(いぬ)が来た」と店にいた人たちが話すという光景も見られた。「周鴻慶事件の時のように投石だけでは済まないかもしれない」。心配は膨らんだ。
当時の加覽尚芳校長(平成11年没 )は日本人学校50周年記念誌に「今だから話せる『杞憂』」と題して台湾の高官になっていた台湾人戦友に相談して断交で暴動が起きた時、日本人学校の対応などを決めたと書いている。日本人学校の校歌の作詞者(作曲は小林亜星)でもある影山亘教頭(平成13年没)の夫人、高子さん(87歳)=大阪府在住=は「影山は『心配したけれど何もなくて、うまくいった』と話していた」という。実際、暴動も起こらず、日本人学校に投石もなかった。
まさに杞憂に終わったのは「台湾側の配慮で学校の安全が保たれたからでもある」と当時の中村慎吾先生(85歳)=広島県在住=はいう。断交前の9月、田中角栄首相の訪中などの説明のため訪台した椎名特使は空港で学生たちに卵をぶつけられた。そのせいか、銃を持った警備兵が学校に配属され、警備に当たった。大使館は「外出自粛」の通知。結局、学校は臨時休校。休校は2週間になり、その間、先生たちはタクシーやバスで家庭を回り、補習を続けた。
しかし子どもたちは事態をそれほど深刻には感じていなかった。「別に怖い思いもしなかったし、暮らしも普通でしたよ」と当時中学生だった森田房樹さん(56歳)=大阪在住=は振り返る。前述の影山高子さんが「政治の動きはあったけれど、政治は雲の上のことだと実感した」というように日台間では民間の絆が強かったのだろう。それは今もいえることだ。

※日台断交:1971年の国連総会で中国の加盟が認められ、それまで議席のあった中華民国(台湾)は議席を失い、国連脱退。中国の国連加盟で主要国は中国と国交を結び、日本も72年9月に日中国交正常化したが、台湾は即時、日本と断交。しかし日台関係継続のために事実上の大使館機能を果たす日本は交流協会、台湾は亜東関係協会をそれぞれ設立し、今日に至っている。


関連年表

昭和34年(1959)
4月 厦門街に校舎移転、校名を台北日本人小学校に改称
昭和38年(1963)
10月 周鴻慶事件
昭和39年(1964)
2月 敦化南路に校舎移転
10月 東京オリンピック開催
昭和40年(1965)
4月 文部省が教官1名を初派遣(福岡教育大付属小の谷口教諭)
9月 「在中華民国日本国大使館附属台北日本人小学校」に改名高坂知武校長が退任し、中田豊千代公使が第2代校長就任
昭和41年(1966)
5月 中国で文化大革命始まる
昭和42(1967)
9月 佐藤栄作首相台湾訪問
昭和44(1969)
5月 松山区福徳街に校舎移転
昭和46(1971)
10月 中国国連加盟、中華民国(台湾)国連脱退
昭和47(1972)
9月 日台断交。日本人学校は約2週間臨時休校
12月 東京に交流協会、台北に亜東関係協会を設立
昭和48年(1973)
1月 台北市から「私立台北市日僑学校」として認可
昭和50年(1975)
4月 蔣介石死去


(2017年1月号掲載)

 

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汚職で醜女
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日本人でしょ?

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台湾人青年たちの命を救った 日本人警部の物語

写真・文:片倉佳史(かたくらドットねっと)
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1. 緑の山並みに映える朱色の廟建築。

台湾には日台の絆を感じられる物語が数多く存在する。苗栗県の山間部に祀(まつ)られる廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)氏のストーリーもその一つ。戦時中、マニラの市街地で起こった激戦と台湾人青年を救った一人の日本人。今月24日には41回目の慰霊祭が催される。

獅頭山に祀られる日本人警部

台湾北西部の苗栗県。緑豊かな山道を進むと獅頭山へ到着する。ここは山肌に複数の道教寺院が点在し、清国統治時代から霊山として知られてきた。喧騒(けんそう)とは無縁の世界が広がり、かつては台湾十二勝にも挙げられた景勝地である。週末にはハイキングに訪れる人も少なくない。

そんな山中に建つ「勧化堂」に一人の日本人が祀(まつ)られている。その名は廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)。祀られているとはいっても神像はなく、本堂右手の部屋に位牌が置かれているだけだ。しかし、30年以上の長きにわたり、台湾の人たちによってその霊は弔われてきた。

祀られている廣枝氏は神奈川県足柄下郡生まれ。湯河原での小学校教員を経て、1930(昭和5)年に渡台。台湾では警察官として、基隆(きいるん)や新竹、苗栗などを転々とした。38歳の時に新竹州の警部に昇進。そして、1943(昭和18)年に台湾青年で構成された海軍巡査隊の指揮官に任命される。

廣枝氏の部隊が向かったのはフィリピンのマニラ。ここで第二次世界大戦最大ともいわれた市街戦と向かい合うことになる。当初はまだそれほど緊迫した状態ではなかったというが、1945(昭和20)年に入ると戦況は悪化し、米軍の猛烈な攻撃を受けるようになった。しかし、こうした状況にもかかわらず、司令部は巡査隊の武装解除を通告。隊員たちは三八式歩兵銃を軍に差し出すことを要求され、代わりに竹槍と棒地雷、円錐弾が渡された。これは戦車に体当たりすること、すなわち玉砕することを意味していた。

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2.広範な地域に廟が点在する。

部下を守り、自らは自決を選択

1945(昭和20)年2月3日、米軍がマニラ市街地へ突入。日本側は陸軍が撤退し、海軍陸戦隊が中心となっていたため、圧倒的に不利な状況となっていた。その後、市街戦は約1カ月にわたり、街は焼き尽くされた。

そんな状況の中、廣枝氏の部隊にも突撃命令が下される。氏は戦闘の続行は不可能であると判断していたが、命令に逆らうことはできなかった。2月23日、廣枝氏は部下を召集し、「おまえたちは台湾で父母兄弟が待つ。行ける所まで行け」と涙ながらに語った。その後、自らは壕の中に入り、自決を図った。享年40歳だった。

台湾人の部下たちは米軍に投降し、生き永らえた。そして、祖国に帰還した後、廣枝隊長の恩に報いるため、「廣枝祠」を建てることを思いつく。しかし当時の台湾は中華民国に組み込まれ、国民党の独裁政権下にあった。敵国人だった日本人を祀ることは極めて危険だった。そこで、獅頭山に永代仏として合祀し、供養してもらうことにした。そして、1976年9月26日、最初の慰霊祭が執り行われた。

ボランティアによる慰霊祭ツアー

その後、毎年9月に慰霊祭は行われてきた。しかし、月日の経過とともに部下たちの数は減り、2012年には最後の一人だった劉維添氏も慰霊祭当日に他界してしまう。劉氏は巡査隊の小隊長を務めた人物で、筆者は生前に何度か話を伺うことができた。劉氏によれば廣枝隊長は心の広い人格者で、誰に対しても分け隔てなく接していたという。70年の歳月が過ぎても隊長への想いは決して色褪せることがなかったようで、劉氏が隊長について語る際は、いつも目に涙が溢れていた。

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獅頭山で話を伺う参加者。

2008年からは在留邦人の渡邊崇之氏が中心となり、有志たちも慰霊祭に参加するようになった。渡邊氏は台北でコンサルティング会社を経営する傍ら、日台の歴史的繋がりについて研究を続けてきた。渡邊氏は2007年に劉氏がたった一人で慰霊祭を行っていることを知り、慰霊祭のサポートをするようになった。そして、劉氏の逝去後はその遺志を継ぎ、毎年ボランティアで慰霊祭ツアーを続けるようになった。関心を寄せる人は年々増え続けており、昨年の参加者は総勢48人でバス一台が満席になるほどだった。

今年の慰霊祭は9月24日(土)で、すでに多くの申し込みがあるという。戦争という悲劇の中にも日台の絆は存在していた。そのことを知って感動を覚える人は少なくないはずだ。廣枝隊長と部下の物語に触れてみてはいかがだろうか。

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生前の劉維添氏。

(2016年9月号掲載)


獅頭山慰霊祭ツアー
慰霊祭ツアーには在留邦人や日本語世代のお年寄りなどが参加している。慰霊祭後は南庄で客家料理を賞味。散策後、台北に戻る。
■日時:2016年9月24日(土)8:00出発、17:30ごろ解散。
■集合場所:台北駅東3門出口
■会費: 完全実費制で1000元程度(バス代、お布施、食事代込み)。空席状況は上記までお問い合わせください(現地での合流も可能)。
■お問い合わせ先:LinkBiz台湾(電話 02-2568-2334)

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第32回 片っ端から

最近、携帯電話を換えました。

近い将来、2Gが使えなくなるので4Gに替えなければいけないといわれたからです。実のところ、何が2Gで何が4Gなのか、ぼくにはよくわからなかったんですが、携帯電話が使えなくなるのは困るし、それに中華電信がキャンペーンをやってるということだったので、めんどくさいと思いながらも重い腰を上げて行って来たわけです。
その日はキャンペーンの最終日。ぼくがサービスセンターに着くと、すでに3、4人の人が番号札を手に順番を待っていました。開いてる窓口は2つ。ざっと見積もって30分も待てば無事新しい携帯電話を手にすることができると思ったんですが、いくら待っても順番が回って来ません。
どうしてか。
ひとりのおばさんが窓口のひとつを独占してたからです。
もう少しわかりやすくいうと、そのおばさん、キャンペーン内容について窓口の係員に片っ端から質問してたんです。
「ねえ、こっちの機種だと何がどう違うの?」
「えっと、それはですね……」
「こっちのプランだと料金はいくらになるの?」
「えっと、それはですね……」
「この機種は何色があるの?」
「えっと、黒と白と赤と……、赤は在庫があったかなぁ」
こんな具合に、いくつもある機種のすべてについて事細かく聞いていたのです。
一方、店員もこれに対して律儀に答えてる。で、いつの間にか、ぼくのうしろには十人以上のお客さん。気が付けばサービスセンターに来てからもう1時間以上。
ぼくたちは何もいわず、ずっと自分の番がくるのを待っていました。

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さて、そんなおばさんを見て、ふと思ったのが、先日スーパーへ行ったときの出来事でした。
野菜売り場でトマトを買おうとしたときのこと。トマトの棚の前におばさんがドンと立ち尽くし、ぼくが棚に近づくのを阻止。まあ、ぼくより先にいたわけだから、文句をいう気もなかったんですが、そこでおばさんが何をしたかというと、発泡スチロールのパックに入ったトマトをひとつずつ手に取って片っ端から品定め。その間、やはりぼくは何もできずに、ただひたすら彼女が立ち去るのを待つだけでした。
このときのおばさん、「わたしの用が終わるまで、そこでおとなしく待ってな」みたいな強いエネルギーを発散してて、これが携帯電話のサービスセンターで見たおばさんと同じ空気だったんです。
こんなふうにされると、待ってる側はもう何もできないというか、「まあ、こんなことはめったにあるわけじゃないし、きょうは運が悪かったな」ぐらいに考えるしかなくなってしまいます。そして、「状況を全部把握したいのはわかるけど、もう少し何とかならないのかい」と心の中で毒づきながら、ひたすら黙って待つしかないのです。

そういえば、ぼくのよく行くコーヒーショップでも似たようなことがありました。でも、そのときは違った展開に。
これもおばさんなんですが(ごめんなさい、今回はおばさんばかりで。たまたまです)、メニューをめくりながら、苦(にが)みはどうなのかとか、酸味はどうなのかとか、そこに書いてあるコーヒーについて片っ端から聞いていました。
ウェイトレスはそのたびにひとつずつ、コーヒーの風味について説明しています。で、ぼくはその横で気の毒に思いながら、事の成り行きを伺っていました。
ところがこのとき、若くてイケメンのウェイターが現れてこういいました。
「苦いのがお好みでしたら、当店の特製マンダリンはいかがでしょう」
すると、おばさん、さっきまでの質問なんてなかったかのように「じゃ、それ」、とひとこと。
えっ、そんなに簡単に解決しちゃうの?
あまりのあっ気なさに、ぼくは魔法にでもかかったような気分になったのでした。

(2016年9月号)

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石知田 シー・チーティエン

瞳に宿る知性と才能

     期待度120%の新進俳優

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1990年12月10日生まれ。25才。“台湾の東大”といわれる台湾大学在学中から短編映画に出演、2014年『軍中樂園』で長編映画デビューし、『五月一號』、『我的少女時代』に出演、台湾で公開中の映画『極樂宿舍』では主役、ドラマ『滾石愛情故事』の『鬼迷心竅』で主役。自らプロデュースした舞台劇『釵 CHAI PARTY』に主演するなど、クリエーター志向も強い。園子温、岩井俊二、是枝裕和、石井裕也、宮藤官九郎が好きという日本映画通。

台湾師範大学附属高校〜台湾大学というエリートコースから、たまたま大学2年の時に学内の映像制作に関わることになって演技に興味を持ち始めた石知田(シー・チーティエン)。『五月一號』(若葉のころ)と『軍中樂園』のオーディションを受けたことから俳優の道に進み、今年の夏休み映画『極樂宿舍』で初主役を務めた。『極樂宿舍』の初日、怒濤のプロモーション開始直前に取材したのだが、しっかりと自分を見つめる聡明さと時折見せるかわいらしさに、取材スタッフは皆、心を持っていかれた。

―『極樂宿舍』はコメディー要素の強い映画ですが、出演を決めたポイントを教えてください。

「僕がこれまで演じてきたのは文芸系の作品が多かったので、この脚本を読んだ時に演技の幅を広げられるのではないかと思いました。いろいろな役を演じてみて、自分はどういう役が向いているのか、どういう役がやりたいのかを探ることができると思ったからです」

―林世勇(ヒーロー・リン)監督との仕事はいかがでしたか。

「これは大学の寮を舞台にしているのですが、僕は寮生活をしたことがないので監督に『大丈夫ですか?』と聞いたら、『だからいいんだよ』と言われました。経験がないからこそ固定概念を持たない、寮生活でどんなことが起こるのかわからないから自由な発想で役に挑めるということですね。監督はアニメーションの世界からスタートした方で、これまでの監督とはまったくやり方が違いテンポが速いのです。例えば泣く演技の場合、涙が出てくるまでの心の動きを表してから泣くということが多かったのですが、監督はそういう“タメの演技”は必要とせず、ダイレクトに泣くという演出方法でした。それは新鮮でとても面白かったですね」

―でも、かなり戸惑ったところもあるのでは?

「最初はそうでした。でも監督によって価値感が違いますから、僕はそのさまざまな価値観を受け入れてその中に身を置いて演じることが必要だと思います。監督の描く世界を理解して信じることができなければ僕の演技は観客に伝わらないし、これはどうかな?と思うこともありましたが、それは僕の固定概念なのでそれを打ち破っていかないといけない、このキャラクターはこういう考えだからこういう行動なのだということを、その世界観の中で構築してうまく入り込んでいくという作業でした。今回初めての主役ですが、僕がそうしないと観客がこの物語に入り込めないですから、興行成績よりも観客に納得してもらえる演技ができるか、というのがプレッシャーでもありました」

―この主人公は建築を学ぶ学生ですが、ご自身が台湾大学で土木を専攻していたことで何か役に立った点はありましたか。

「実は土木よりも創造性の高い建築デザインに興味があって、3年生の時に別の大学で建築デザインを学んだことがあります。もともと卒業したら海外へ留学して建築家を目指そうと思っていました。ですから、監督とこの主人公は安藤忠雄のようなミニマリスト的建築ではなく、アントニ・ガウディのような有機物が生えていくような“生きた建築”が好きなタイプではないかと話しました」

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―個人的に好きな建築家や建築物は?

「ル・コルビュジエ、ルイス・カーン、クリストファー・レン、ザハ・ハディド、それからガウディも好きです。今年のはじめに京都に行ったのですが、京都は木造建築で茶道の概念を取り入れた茶室があったりして良いですね。逆に東京は安藤忠雄の表参道ヒルズのような哲学的なものが多く、伝統の京都と現代的な東京という対比は面白いですね」

―建築以外で大学時代の印象深い思い出を聞かせてくれますか。

「思い出深いのは、大学よりも高校時代ですね。それまで僕はオタクで、ゲームと勉強しかしていなかったのですが、高校に入って初めて部活を経験しました。ストリートダンスでパフォーマンスの楽しさを知り、HIP-HOPやR&Bを聞くようになって価値観が変わりました。先輩に五月天(Mayday)がいたので、学業だけでなくこういうエンターテインメントの道もありなんだと目からウロコで、こんな楽しいことがあることを知りました」

―映画にドラマに活躍が続きますが、これからどんな方向を目指しますか。

「いろいろな芸術に触れて自分を磨き、それで自分らしくなっていく……そんな俳優になりたいです。また、今年舞台の制作と主演をしたのですが、制作や企画に関わることが演技にも相乗効果を生みますから、機会があればクリエーティブなこともやっていきたいと思っています」

取材・文:江口洋子/写真:彭世杰/メイク:王霖/ヘアー:Zoe(Driven.by.)/衣装協力:Tender.S

映画『極樂宿舍』

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極樂宿舍 極樂は建築家を目指す大学生、初めての寮生活を謳歌していたのだが、突然古い男子寮取り壊しの告知を受ける。 なぜ男子寮だけ? 憤懣やるかたない彼らは、怒りの矛先を新しくてきれいな女子寮に向けて不公平を正そうと仕掛けるのだが、実は悪徳業者の土地乗っ取り計画だと知る。極樂たちは悪徳業者の企みを暴こうと女子寮とタッグを組み、大学を救うために立ち上がった……。笑いあり涙あり、恋と正義の青春映画。 公開:台湾公開中 監督:林世勇(ヒーロー・リン) 出演:石知田(シー・チーティエン)、洪晨穎(ホン・チェンイン)、劉俊緯(Lollipop-Fの阿緯)

(2016年9月号掲載)

 

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韋禮安 ウイリアム・ウェイ

変幻自在な音楽性は無限大

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1stソロアルバム・3rdアルバムで、それぞれ金曲獎の最優秀新人賞と作曲賞を受賞するなど、台湾のミュージックシーンで今最も注目されている一人、シンガー・ソングライターの韋禮安。劉若英(レネ・リウ)や范瑋琪(ファン・ウェイチー)、郭靜(グオ・ジン)、張韶涵(アンジェラ・チャン)ら人気歌手に楽曲を提供するなど、創作面でもキャリアを積んでいる。
2年半ぶりとなる4stアルバム『硬戳』のリリースにあたって、本誌の単独インタビューに応える。彼独特の温かい雰囲気の中、アルバムの魅力などについて気さくに語ってくれた。

―デビューのきっかけは、音楽サイト・street voiceに投稿した楽曲が注目されたからだとか?

「ええ。最初は単に友達に聞かせたいという程度のものでした。ですから、レコード会社がアルバムを出すと言ってくれても、自分はまだ心の準備ができていなくて、ずっと迷っていました。でも『誰でも最初から準備万端なわけではないのだから、やりながら学べばいい』と言われ、考え方が変わった。失うものは何もないんだからダメ元でも試してみよう、と。それでライブハウスで経験を重ね、最初にEP、その後にソロアルバムをリリースしました。リリース当日がちょうど大学の卒業式だったので、とても印象に残っています。大学卒業後はすぐ兵役に就いたのですが、アルバムの反響が良く、まさか金曲獎まで取れるとは思いませんでした。兵役中に休暇をもらって金曲獎に参加できたことは、本当に光栄で、うれしかったです。その時から本気で音楽の道を歩いていこうと決意しました」

―ニューアルバムのタイトル『硬戳』とは、どんな意味ですか。

「このアルバムで一曲目に書いた『intro』という曲に対して、会社から中国語のタイトルもほしいと言われたんです。単純な中訳で「序章」「序曲」と付けるのはつまらないと思い、語呂合わせで『硬戳(インチュオ)』と付けたのが、アルバムのタイトルにも採用されました。もともと、活発で何でもありな感じに作りたかったのでいいかもと。私は『硬戳』(頑として突き刺す)の言葉のイメージを、自分の背中を押す動作として捉えています。前回の3rdアルバムから、私はずっと新しいことに挑戦するよう自分で自分の背中を押していました。韋禮安といえば、フォークソングを歌う歌手だとか、イメージを固定されたくないですから。去年の台北アリーナのコンサートでは、ダンスしたり、ロックの曲風を試したりしましたし、今回のアルバムでは新たにEDMの創作に挑みました。EDMのほかヒップホップ、R&B、フォーク、アルゼンチンタンゴなど、いろいろな曲風の曲を作ったので、創作の過程はとても楽しかったです」

 

―「intro」がそのEDMの曲ですね。歌詞と音楽が対比的に感じました。

「そうですね。新しい曲風と古風な詞をミックスするのはあまりないと思います。実はこのような両極端なことをやるのは結構好きです。この曲は時間という概念を取り出して、人の『存在』をテーマに書きたかったので、創作の前に不条理の要素が詰まったアルベール・カミュの作品を読んで参考にしました。歌詞には、中国古代の伝説『盤古開天 女媧造人』や荘子の『莊周夢蝶』、近代詩人鄭愁予の『錯誤』から引用したものもあります。もし誰もが死という結末に向かうのなら、どうしてこんなに頑張らなければ、悩まなければならないのか。人の存在する意味は何なのか、などいくつかの疑問を問うたものです。歌詞では伝えきれないと思いますが、この歌はメロディーがかっこいいだけではなく、歌詞も深みのある内容なので、いろいろ考えてもらえるきっかけになればいいですね。アルバムの1曲目としてもふさわしい曲だと思います」

―ではご自身はもう答えが出ましたか。人の存在意義について。

「難しいですね。カミュも、世界共通の答えはなく、人それぞれの答えを探さなければならないと言いました。私も多分一生をかけて探さなければならないですね」

―アルバムの中で最も気に入っている曲はありますか。

「最後の曲『在意』(気になる)は個人的に好きな曲です。アルバムの構成とは区別したボーナストラックみたいな曲なのですが、ずっと探していた、自分の内向的な性格の原因の答えが得られました。小さなころから人の目や他人の見方が気になって仕方がなく、両親や先生、友達には好きになってほしいし、嫌われるのが怖かったので、今の性格になったのかもしれません。皮肉にも、歌手になった今は、以前よりもっといろいろな意見が聞こえてきます。称賛もあれば批判もあります。それらの声を気にしないようにすることが今の私の課題ですね。気にしすぎると本当の自分を見失ってしまいます。この曲は心の告白なので、アルバムに入れようか迷いましたが、同じ気持ちの人たちにはこの曲が必要かもしれない、聞いた後、心の出口ができればと思い収録しました」

―デビュー前からたくさんの歌を作られていますが、ご自身だけの魅力、特徴は何ですか。

「まとめるのが難しいですね。曲でよく使う旋律を挙げると技術的になりそうですし……。歌詞ならストレートな表現を好みます。華麗な詞よりシンプルな言葉で人の心を打つ歌詞が最高のレベルであり、目標としています。例えば友達が書いた詞ですが、一見ラブソングのようなのですが、実は亡くなった祖母へのオマージュとして書いた歌詞で『你看著我來 我看著你走』(あなたは私が来るのを見て、私はあなたが逝(・)くのを見た)シンプルだけど、グッときました」

―ではアルバムの中で、会心の出来だと思われる歌詞を一つ教えてください。

「『intro』の1行目『這裡是盡頭也是開頭』(ここは終わりであり、始まりでもある)は、いろいろなことに当てはまります。人生だけではなく、例えばこのアルバムは今はもう作り終わりましたが、音楽の旅はここから始まります。とても希望に満ちた感じです。前回のアルバムのテーマは恐怖だったので『良い曲だけど聴いた後の絶望感が半端ない』という声が(笑)」

ずっと創作活動をしたい。音楽って面白いから

―前回のアルバムから2年半ぐらい空きましたが、創作活動はずっとされていたのですか。

「正式にアルバムを制作し始めたのは去年の年末からです。その前はコンサートの準備や『紅樓夢』の舞台劇、少数民族の映画に出演するなど、いろいろと忙しかったです。最初はお芝居に抵抗があって、特にデビューしたばかりの時期は音楽だけをやるとこだわっていました。(お芝居を)やると決めたのは、心の中のもう一人の私が背中を押した結果ですね。今は本当にやってよかったと思います。違うフィールドに挑戦したことで、もともとの音楽の枠を越えて新しい発想ができたので、創作活動に戻った時プラスになりました」

―歌手としての今後の目標を教えてください。

「最近の目標はもちろんツアーを順調に終わらせることです。長期的な目標はデビューからずっと変わっていなくて、一生音楽を創作することです。歌手でなくなったとしても、制作サイドなり、何らかの創作活動を一生やりたいです。音楽って本当に面白いから」

―創作力が枯渇するかもしれない、という恐れはありませんか。

「全然ありません。新しいことを学べば新しいアイデアが出てきます。新しい技術や知識はずっと出てくるはずですから、一生をかけても学びつくせないでしょう。脳を開放して若い心を保てば、創作力が枯れることはありません」

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―普段オフの時間はどんなことをされていますか。

「PS4でゲームをしたり(笑)、友達とバスケットボールをしてリラックスしています。あ、あと一昨年は自分で料理することにハマっていました。胃の具合が少し悪くなって、医師になるべく外食しないようにと言われたので自炊を始めたのですが、意外とストレス解消になりました。最近は忙しくて、たまにしかできませんが、当時は毎晩寝る前に必ずネットで料理教室の映像を見てから寝ていましたね」

―得意料理は何ですか。

「水を一滴も使わない無水カレーです。野菜自身の水分で作るのですが、とても簡単で野菜のうま味や甘みを味わえるのでとても美味しいですよ」

Profile
台中出身。台湾大学卒業。2007年にバラエティー番組『快樂星期天・校園歌喉戰』の歌唱コンテストで優勝。1stソロアルバム『韋禮安』(10)で11年金曲獎の最優秀新人賞を受賞。恐怖をテーマとした3rdアルバム『有所畏』(14)ではそれまでの優しく爽やかなイメージを一新し、収録曲「狼」が15年金曲獎・最優秀作曲賞を受賞した。2nd『有人在等』(12)、最新作は『硬戳』。そのほか劉若英、范瑋琪、郭靜、蔡依林、徐若瑄など多数の歌手にも楽曲提供。

写真提供:福茂唱片

(2016年9月号掲載)

 

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