Category: 連載

第31回 向田さんの話

もうかなり昔の話です。

台北駅が今の姿になる前、まだ小さくて、どっかの田舎の駅みたいだったころ、ぼくは早朝から切符売り場の窓口に並んでました。

今では信じられないような話ですが、開いている窓口はひとつだけ。で、そこに何十人もの人が長い列を作ってました。

薄暗いロビーは夏だというのに、ひんやり涼しく、でもクーラーなんてものはありませんから、汗臭いにおいが充満してる。一種異様な空気です。

どうしてぼくがそこにいたかというと、はじめて台湾の南部へ旅行に行くためです。ただ、一人旅だったのにくわえて、当時のぼくは中国語もそれほど上手じゃなかったので、ちゃんと切符が買えるかと不安の心中。並びながら、こんなことなら飛行機で行くべきだったと、後悔さえしていました。

さて、やっとの思いで切符を買って特急自強号に乗車。窓から眺める田舎の風景はきれいで、それに当時はウーロン茶の車内サービスなんてのもあって、快適な旅モードになりかけたときのことです。

途中駅でおかあさんと中学生ぐらいの娘が乗って来てぼくのとなりに座りました。で、何となく世間話に。

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「さっき飛行機が落ちたんだよ」

娘の言葉にぼくはびっくりしました。

さらにそれから三日ほど経って、テレビのニュースを見てもう一度びっくり。その飛行機には作家の向田邦子さんが乗っていたのです。

このことを以前、ぼくは台湾の新聞のコラムに書いたことがあります。すると、思ってもみなかったんですが、何通かメールをいただくというような反響がありました。

彼らはみんな向田さんのファンで、中には事故現場に行ったなんて人もいました。

でも、これはぼくにとって少し意外なことでした。

たしかに台湾でも向田さんの作品は何冊も出版されています。でも、小説にしてもエッセイにしても、彼女の作品と聞いて、ぼくが真っ先にイメージするのは「昭和」だからです。登場人物は頑固者のおとうさん、その陰で支えるおかあさん、ずるずると不倫にはまる女性。いろいろではありますが、みんなその背景には「昭和」のエッセンスを感じます。はたして台湾の人たちはこの感覚が理解できるのだろうか。そんなふうに思ったからです。

で、さっそく知り合いの台湾人を何人か集めて向田作品の読書会を開催。その中でぼくのほうから質問してみました。

すると彼らの中にも、「昭和」と共通するような感覚があることに気付いたのです。「昔、おとうさんは怖かった」とか「家族がみんな一つの部屋で寝てた」みたいな。それに作品の中に登場する小物。給食に出てくる牛乳瓶とかブリキのバケツとか、こういうものは彼らも実際に使ったことがあるとのこと(二十代とかだとないかもしれないけど)。

さすがに縁側は知らないだろうと思って聞いてみると、

「あそこに座ってスイカ食べるんだよね。庭に向かってタネをぺって吐いたりしながら」

ええっ、何でそんなこと知ってるの。あり得ない……。

彼らが縁側を知ってたのは、クレヨンしんちゃんとかまる子とか、アニメの中でよく見るからでした。でもこのとき、ぼくにとってはそんなことより、アニメで見たことをまるで彼らが自分で実際に体験したことのように、ごく普通に受け入れてることが驚きでした。恐るべし、日本のアニメ……。そして、そんな台湾人の疑似体験。聞いていて、ぼくは言葉ではうまくいえない微妙な寂しさを感じました。

今年も8月がやって来ます。毎年この時期になると、なぜかぼくは向田さんのことを思い出してしまいます。彼女が亡くなってからちょうど35年。信じられないような速さです。でも、田舎の駅みたいだった、暗い台北駅の窓口に並んでたときのことは、少年がおじさんになった今でもはっきり覚えています。

2016年8月号掲載

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第30回 書き込む

ぼくがいま住んでいる家は図書館の近く。徒歩で2、3分。

こんなに恵まれた環境はなかなかありません。というのも、この図書館には台湾の本だけじゃなくて、日本の本もたくさんあるからです。ぼくが借りるのはもっぱら小説なんですが、日本で最近話題になったのとか、大きな賞を受賞したのとか、こういうのが結構そろっています。

どうして台湾の図書館で日本の本の品ぞろえがこんなにも充実してるのか、それはさておき、実は先日こんなことがありました。

借りてきた本を読んでると、数カ所に書き込みがあったのです。

で、何が書いてあるのか見てみると、翻訳でした。

文章の中、数カ所に線が引っ張ってあって、その横にはボールペンの手書きで、文の中国語訳が書いてあるのです。

おそらくこういうことじゃないかと思います。

日本語を勉強している台湾人の学生が、わからない文の意味を調べた。で、普段から教科書に重要ポイントを書きくわえる癖がついつい出てしまったんじゃないかと。

まあ、真偽のほどはわかりませんが、とにかくどうであれ、図書館の本に文字を書き込むという行為。  ぼくには何となく土足で家の中に上がるのと同じような感じがして、どうにも馴染めないというか、しっくりきませんでした。

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イラスト 高橋きのこ

書き込むということでいえば、昔からよくわからないのが故宮博物院の絵画です。

清とか明とかの時代の山水画とか風景画とか。よく見ると、その一画に一塊になった文章の書き込み。聞くところによると、これは絵を見た人が自分の感想を書き込んだとのことです。

最初これを聞いたときは唖然としました。

どうして人の作品に平気で書き込みができるのか。ぼくが作者だったら、こんなふうに自分の作品に書き込みされた日には「お前、このヤロー」なんて怒り狂いそうです。

ところが、当時の人はそんなこと、意に介さないどころか、「わざわざ書いてくれてありがとう」みたいな感じだったとか。ちょうど台湾で本を出版するときのように、著名人が推薦文を書いてくれた、みたいな感じで有り難いことだったそうです。というわけで、書き込む側も堂々としたもの。こんな話を聞くと、一瞬、台湾の書き込みは遥か昔の時代から文化として成り立っていたのか、なんて思えてきそうです。

でも、たとえそうだったとしても、他人の作品に書き込むという発想。ぼくにとっては、やはり理解不可能です。

そして、さらにわからないのが紙幣の書き込みです。

台湾ではときどき紙幣の白いところにボールペンで数字とかが書いてあることがあります。これはどうなんでしょうか。書き込む人からすれば「そこに紙があったから書いた」ってな感じなのかもしれませんが、書き込みどうのこうのの以前に、犯罪にはならないのかなあ、なんて考えたりします。

そこのところを台湾人の友達に聞いてみると、こんな答えが。

「たぶん、商売人がお金を計算するのに書いたんだよ。小学生のころ、手のひらをメモ代わりにして文字を書くのと同じ発想」

手のひらをメモ代わり?

聞きなれない話なので、もう少し突っ込んで聞いてみると、彼女が小学生のころ、学校でいろんなことを忘れないように手のひらにボールペンで書くのはごく普通の行為だったとか。中には腕にまで細かい文字をぎっしり書き込んで、一見するとまるで入れ墨を入れたみたいに見える子供もいたというのです。

「へえ、でもボールペンで書いたら、消すときたいへんじゃないの」

すると彼女、少し恥ずかしそうに、

「大丈夫。舐めれば消えるから」

……たしかに。

台湾の書き込みの原点を垣間見たようで、それまで不思議に思っていたことが何となく少しだけわかったような瞬間でした。

(2016年7月号掲載)

 

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第29回 とにかく交渉してみる

弁当屋でのことです。

昼時のいちばん混み合う時間帯ということもあってか、カウンター付近はテイクアウトのお客さんでいっぱい。注文を聞く店員の声もつい荒くなっていて、戦場のような空気が漂ってます。

そんな中、やっとの思いで注文を済ませて待っていると、ぼくのうしろに並んでたおばさんが早口でまくし立てました。

「鶏腿(ジートゥイ)弁当ふたつと排骨(パイグー)弁当みっつ。鶏腿のうち、ひとつはごはん少なめ、排骨ふたつはごはん多め。それから鶏腿の付け合わせは、ひとつは苦瓜はいらないから、その代わりほかの野菜にして。あと排骨のひとつは干し豆腐じゃなくてキュウリの漬物に。ああ、肉は全部食べやすいように切っといてね!」

すごい注文の仕方。

でも、唖然とするぼくの横で、店員はこの注文をごく普通に受け止めて、奥の厨房に伝えています。何という記憶力。というか、ここまでくるとすでに職人技の粋に達してるような気さえします。

ところで、ふと思ったのですが、こういう注文の仕方、日本ではあまりお目にかかりません。「それ、いらないから、ほかのに変えて」とか、「ごはん多めにちょうだい」とか。そんなのにいちいち対応してたら、店のほうもたいへんだし、お客のほうもそんなことで店員の手を煩わせるなんて非常識だと考えてしまうからでしょう。だからなのか、店員から「すみません、ちょっとそういうのはお受けできないんですよ」なんていわれると、「あっ、そうなんですか」と潔く引き下がる人がほとんどのような気がします。

でも、そこのところ、台湾では割とおかまいなし。とにかく交渉してみるという人によく出くわします。同じお金を出すんだから、要求はいわなきゃ損ってな具合なんでしょうか。

で、これに対して店側もたいていの場合はだめだとはいわない。素早くコスト計算だけして損がないとわかれば、お客の要求に応じる。これによってお客もお店もハッピーということで一件落着するのです。

 

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イラスト 高橋きのこ

 

さて、とにかく交渉してみるという、この感覚について、台湾の人たちは日本人と比べて格段に「前向き」な気がします。それどころか、中にはそこから話がはじまるぐらいに思ってる人もいます。

で、それは何も弁当の注文に限ったことじゃありません。

たとえば、何かを申請するとき、書類が足らないとか、受付窓口が閉まってしまったとか、規則上はだめだとわかっていても、「そこのところを何とか」とか「どうしてだめなの?」とか、とりあえず交渉してみます。

警察に交通違反で捕まったときだって、ああでもない、こうでもないといいながら、何とか「無罪」に持ち込もうと、ここでも交渉。

そして、その交渉が結構成果を上げたりもするのです。

そういえば、ぼくも台湾に来た当初、もうかなり昔のことですが、台湾人の、とにかく交渉するという行為を見て、「ああ、これが台湾で生活していくのになくてはならない術なのか」なんて、本気でそう思ったこともありました。

ところが、最近台湾も変わってきました。

社会全体で、決められた規則は守ろうという気運が高まり、それとともに何でもかんでもとにかく交渉なんていってる人は徐々に減ってきたのです。この現象は、特に若い人たちの間で顕著に見られます。

で、ぼくがたまに昔の感覚で「頼むから何とかしてよ」とかいって交渉したりしようとすると、「何? このおじさん」なんて白い目で見られたりするのです。そしてその瞬間、急に恥ずかしくなって、「自分の感覚も常にアップデイトしないとね」なんて、ひとり反省したりするのです。

とにかく交渉。

悪いとはいいませんけど、せいぜい料理の注文あたりで止めておいたほうが……やっぱりいいんでしょうね……。

(2016年6月号掲載)

 

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第28回 呼び名の話

あるレストランで食事をしていたときのことです。

となりの席でいきなり大きな声が上がりました。何かと思ってそちらのほうを見ると、お客は女性のふたり連れ。年は40代後半から、もしかしたら50に手が届いてるかもといった感じ。で、その横には困惑顔のウエイトレス。

「失礼にもほどがあるわ!」

お客のひとりはいかにも怒りが収まらない様子で、ウエイトレスに容赦ない怒声を浴びせています。

こうなると、一体何やったんだと好奇心が一気に頭を擡(もた)げてきます。食べるのを一旦やめて、観察を続けることしばし。すると事の成り行きがだんだんわかってきました。

原因はウエイトレスの使った呼び名でした。

彼女はお客の女性のことを「阿姨(アーイー)」と呼んだのです。

「阿姨」というのは中国語だと「おばさん」という意味になりますが、日本語の「おばさん」とはちょっとだけニュアンスが違っていて、そこには上の世代に対する尊敬の念のようなものが込められています。

このケース、ウエイトレスは見たところ20歳前後で、お客の女性はどう見ても自分の母親と同世代。となると、「阿姨」は甚(いた)く自然な呼び名です。だから、彼女からしてみたら、そう呼んで怒られる理由がわからない。

ところがお客の女性は「阿姨」を日本語の「おばさん」のように「老けた女」と捉えたようで、事がややこしくなってしまったのです(最近そちらの意味に捉える台湾人も少なくないので)。

そして、お客のうちのもうひとりの女性はというと、ウエイトレスのほうを気の毒に思ったのか、「まあ、まあ、そんな怒るほどのことでもないでしょ」と友達をなだめるのに一生懸命でした。

 

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イラスト 高橋きのこ

 

さて、ぼくも「おじさん」と呼ばれるようになって久しいからか、呼び名については結構寛容というか、「まあ、何でもいいや」ってな感じで、「何なら、じいちゃん」でもいいよなんて思っていました。

ところが、ついこの間、タクシーに乗ったときのことです。

どう見ても70はいってるなって感じの運転手と何故か意気投合して世間話がはじまりました。

「最近、ちょっとひざが痛くてね」

ぼくは昔に怪我をしたときの古傷が痛むというつもりでいったのですが、その運転手のおじいちゃん、これに対して何気にこういったのです。

「われわれの年になると、体もあちこちボロボロさ」

ぼくは一瞬唖然としました。

えっ、彼のいう「われわれ」って……。

「じいさん」と呼ばれても大丈夫なんて思っていたぼくですが、この「われわれ」には後ろから思いっ切り頭を殴られたような衝撃を受けました。

ぼくと運転手のおじいちゃんが同じカテゴリーだなんて……。

そう思うと、もう次の言葉が出て来ません。

まあ、運転手のおじいちゃんがいった「われわれ」というのは、もしかしたら「おじいちゃんの友達のわれわれ」という意味にとれないこともないと自分に言い聞かせてはみるのですが、それでも気持ちは何となくすっきりしない……。

そんな話をうちの女房にすると、彼女は笑いながらいいました。

「わたしだってね、台湾に来たばかりのころは妹妹(メイメイ)(お譲ちゃん)、そのうち同学(トンシュエ)(学生さん)になって、次が小姐(シアオジエ)(おねえさん)。それから太太(タイタイ)(奥さん)。で、最近じゃ老闆娘(ラオバンニアン)(おかみさん)になったのよ」

それにしても、まるで出世魚も顔負けの出世ぶり。しかも最後にはお店まで持つとは……。

過ぎ去った時間の長さ。ひしひしと感じました。

(2016年5月号掲載)

 

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第27回 分享の話

 日本ではすっかりおなじみの「爆買い」という言葉。春節やら国慶節やらに中国人が押し寄せて家電やコスメを大量に買ってゆく様(さま)は、日本人にはかなり衝撃的に映るのではないかと思います。

で、これについて専門家の方々は、その理由を円安や日本製品の品質のよさなどと分析しておられます。

たしかにそういう要素もあると思います。ただ、ぼくから見ると、これはすごく経済評論的な意見といいますか、それ以外にももっと根底に何か理由があるような気がしてならないのです。

何故なら「日本では安くていいものが買えるからこの機会に買えるだけ買うぞ」というのはわかります。でも、それと同時に「同じものをそんなに大量に買ってどうすんだ?」という疑問も残るからです(転売目的だという方もいるかもしれませんが、これも違うような。高いツアー料金をぽんと払ってやって来るお金持ちの客人たちが小銭ほしさにそんなたいへんな思いをするとは思えないからです。運ぶのだって楽じゃないし)。

そこでふと思ったのが「分享(フェンシアン)」です。

「分享」というのはシェア、共有といった意味ですが、そこには単に共有するだけに留まらず、いいものだから自分の家族や友人にもそれを味わってほしいといった気持ちが込められています。

「このピーナッツバターのジャム。まとめて買っちゃったから、ひとつあげるわ。結構おいしいんだから」とか「コーヒー豆、箱買いしたからひとつどうぞ」ってな具合に。ただ、ただ相手のことを思って気前よくあげちゃうんです。

こうした状況、台湾では日常の中でごく普通にあるのですが、これと似たような感情が「爆買い」の中国人の根底にも流れてると思うのです。

だから彼らは安いからたくさん買うんじゃなくて、「だれか」にあげるためにたくさん買うのです。「日本でこんないいもの買って来たから、ひとつ持って帰りなよ」なんていいながら、帰国後、友人と楽しそうに会話してる中国人の姿が、ぼくには目に浮かびます。

 

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イラスト 高橋きのこ

 

 

さて、そんな「分享」ですが、ぼくがこの感覚をいちばん身近に感じたのは数年前、まだ雑誌の編集をしていたころに地元のメディア関係者たちと行った取材旅行でした。

バスに乗るなり、みんなが持ってきたお菓子、飴とか煎餅とかビスケットとかを取り出して、ほかの人たちに配りはじめたのです。

前から後ろから、右から左から。あちこちから同時にお菓子が回って来る。

みんな大はしゃぎで楽しそう。まるで車内にウェーブが起きてる感じでした。そして、この同じお菓子をみんなで共有している感じ。これがぼくからすると「分享」。「爆買い」の根底にあるものなのです。

台湾人の友達に聞くと、こうしたお菓子の「分享」は何も取材旅行に限ったことではないらしく、遠足や知らない人同士が参加する団体旅行でも同様のことがあるとのこと。台湾人にはしっかりと根付いた文化なのです。

 

ところで、どうして台湾では普通にある「分享」が日本ではあまり見られないのか。それは相手に接するときの習慣の違いではないかと思います。

というのは、自分がいいと思ったものを相手に勧めるという行為。とても素晴らしいともいえますが、一歩間違うと強引な押し付けにも取られかねません。そういうとき日本人はいいと思ったものを勧めるよりも相手が迷惑でないかを考えてしまいがちです。

たとえば、たばこを吸うという行為。台湾ではさっと2、3本取り出して周りにいる人みんなに勧めます。その人が吸おうが吸わまいが関係なく。でも、日本なら吸わない人にたばこを勧めるなんてとんでもなく失礼、と考えてしまうわけです。

「爆買い」のことを考えていて、ふらふらとそんなことを思ったのでした。

(2016年3月号掲載)

 

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第26回 転居通知

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イラスト 高橋きのこ

 もうかなり昔のこと。ワンルームマンションを借りて、そこをオフィス兼住居にしていた時期があるんですが、そのときの話です。

当時、そこに住んでたのはぼくだけなのに、毎月知らない人宛ての郵便物がいくつも送られて来るのです。郵便物に書かれた住所を確認しても、たしかにうちの住所で間違いなし。で、これがひとりだけじゃなくて何人も。それに会社宛てのものとかも。

というわけで、何とも不思議に思いながら、これら郵便物の処理に本気で頭を痛めてました。

そのときの郵便物。どんなのがあったかというと、まず鄭さんという男性宛てのもの。これは駐車違反の青切符が何度も送られて来る。こういうのは、捨てるのもためらわれて、受け取った側は困ってしまいます。

それから黄さんという、これも男性。彼宛てのものは「讀者文摘」、リーダーズダイジェストです。本人には申し訳ないけど、これは勝手に封を開けて読ませてもらいました(一応いつ黄さんが引き取りに来てもいいように、ページを折らないよう気を付けながら)。それにしてもこういうのはちゃんとお金を払ってるはずなのに、よく放っておけるなと感心してしまいます。

あとは朱さんという女性のもの。彼女のものがいちばん多かったのですが、ほとんどが高級ブランド品のカタログとかスパの広告。何となく彼女の日常を垣間見ることができて、それはそれでおもしろかった。

そしてこのほかに会社宛てのもの。何をやってる会社なのか全然わからないんだけど、送られて来るのは主に請求書の類。

とにかく彼らはみんな引っ越したあとも住所変更というものをしてなかったのです。

 

さて、住所変更といえば、台湾じゃ転居通知というのをもらった記憶がありません。

みんないつの間にか、知らないうちにいなくなってる。

そしてこれは転居に限らず、転職でもいえるような気がします。

お客さんの会社に電話して「陳さん、いる?」と聞くと、「彼女なら辞めたよ」という同僚の返事。しかも何事もなかったかのように淡々と。

先週打ち合わせをしていたときにはそんな素振りさえなかったのに、一体どうなってんだ。そして驚きのあとには「辞めるなら辞めるってひと言いってくれればよかったのに……」という儚さがじわっと湧き上がって来るのです。

まあ、ぼくと陳さんが特別仲が良かったとかそういうわけでもないんですけど、それでも人間、けじめというか何というか……(陳さんのほうはきっとそんなこと欠片も感じてないと思いますが)。そんなことをひとり考えながら、新しい担当者ともう一度はじめから仕事の打ち合わせをやり直すのです。

 

ところが最近、台湾も変わったもので、転職のあいさつメールというのをもらう機会がちらほら出て来ました。そこには「わたくし張○○は某月某日をもって、転職することになりました。これまで長らくお世話になったこと、心から感謝申し上げます」、みたいなことが書いてある。

そして、こういうのをもらうと、ぼくは急にわけもなく嬉しくなってしまうんです。で、すぐにメールを返す。

「張さんの今後のご活躍をお祈りいたします。頑張って!」

するとおもしろいもので、これに対してたいていの場合、メールだとか電話だとか何らかのリアクションがあります。

そのとき、ぼくはこう思うのです。

まあ何だかんだとこれまで言い争ったこともあったけど、それも今思うといい思い出、やっとわかりあえたような気がするなあ。

そして妙に感傷的になったりしながら、新しい仕事が落ち着いたあとの連絡を約束して、しばしのお別れをするのです。

でも、こうやってお別れした人からその後、連絡が届くことはほとんどありません。

時間はこんなふうに流れていくのです。

(2016年3月号掲載)

 

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第25回 見せるため

 退勤時のMRTのホーム。寒さに耐えながら電車を待っていると、そこに登場したのが特大の花束を抱えた女性。

こんな風景に出くわしたことはありませんか。

台湾ではここ数年、バレンタインデーが一般にも認知されるようになっています。中国語で「西式情人節(シーシーチンレンジエ)」、日本語にすると「西洋式恋人の日」とでもなるんでしょうか(ちなみに西洋式があるってことは中華式もあるわけで、それが七夕です)。とにかく、この日は男性が女性に愛を込めてプレゼントを贈ります。

そこで冒頭のシーン。花束を抱えた女性は恋人からの愛のプレゼントを抱えて帰宅中なのです。

さて、これを見て、ぼくなんかは彼女の度胸に感心してしまうわけです。あんなに注目を集めて恥ずかしくないんだろうかって。だから、ぼくだったら花束を抱えて帰宅なんて考えられないし、そもそも恋人が職場に花束なんて持ってきた日には、「お前、何考えてんだ!」って大混乱に陥ってしまいます。

ところが、彼女にそんな素振りはなし。それどころか、どこかしら堂々とした空気さえ漂っています。

そこのところを台湾人の友達に聞くと、

「何いってんの。あれは人に見せるため。わたしって、こんなに幸せなんだってことを」

はあ、そうですか。人に見せるためですか。

でも、彼女のことを見てる人って、彼女が思うように「幸せそうだ。うらやましい」って思うんでしょうかね。やっぱり、恥ずかしい。ぼくにはそうとしか思えないんですが……。

 

見せるためといえば、いきなり路上ではじまる恋人同士のケンカ。これ、前々から思ってたんですが、ぼくは絶対に人に見せるためだと思います。

何気なく道を歩いていると、すぐその横で女性の大きな怒鳴り声。

「何いってんの!」

ぼくだけでなく、周りの人もみんな振り向いて視線は一斉にそちらのほうへ。

すると、彼女が鬼の形相で彼のほうを睨みつけてる。

「あんた、最低ね!」

たたみかける彼女に、その場の空気は凍りつき、道行く人の足もその場で停止。

それに対して、彼のほうはというと、周りの視線を横目で見ながら、どう対応したらよいのかあたふたという感じ。こうなったら、もう冷静になったほうの負けです。彼のほうは一刻も早くその場を収拾したくて「わかった。わかった」と白旗宣言を出してしまうのです。

でも、こんなケース。ぼくは、いちばん冷静なのは、実は怒りまくってる彼女のほうではないかと思うのです。つまり、大声で怒鳴る。人が振り返る。その人たちを味方につける。彼のほうは追い込まれて降参。

と、ここまでの流れを読んだ上で、冷静かつ大胆に行動を進めている気がしてならないのです。

 

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イラスト 高橋きのこ

 

ところで、花束抱えて帰宅する女性も、路上でいきなり怒声を発する女性も、日本ではあまり見かけないような気がします。

発想が違うといってしまえばそれまでなんですが、ぼくはそれ以前に社会の受け入れ度の違いもあるんじゃないかと思います。

どういうことかというと、こういう人たちは周りに対して「わたしは今、うれしいんだ!」とか「怒ってるんだ!」という主張をあたりかまわずやるわけです。

はっきりいってウザい。

でも、台湾ではこれが結構、受け入れられるんです。だから、彼らもそれを知ってて主張する。

そして、そんな社会。ぼくはある意味、いい社会なあだと思います。そこには人の素直な感情を包んであげようという優しさが感じられるからです。

さて、今年のバレンタインデーも出会えるでしょうか。花束を抱えた女性たち。もし、出会ったなら、ぼくは観客をやりたいと思います。よろこんで。

(2016年2月号掲載)

 

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第24回 選挙の話

 2016年、新しい年のはじまりです。

そして、そのはじまりとほぼ同時に、台湾では今年、4年に一度の総統選挙があります。

ぼくは普段あまりというか、ほとんど政治については書かないんですが、台湾にいながら、このビッグイベントを避けて通るというのも何だか却って不自然な感じがする。というわけで、きょうは少し選挙の話をしてみたいと思います。

さて、台湾でも選挙の季節が近づくと、それとともに街のあちこちで「決戦」の雰囲気が漂ってきます。

「拝託(バイトゥオ)、拝託(お願いします)」と声を枯らしながら走る選挙カーや毎日のように家のポストに突っ込まれる宣伝のティッシュ。それに何万人もの人が一列になって手を繋ぐ等々のパフォーマンスとか。さらに、それぞれの陣営ではたくさんの人たちが集まってラッパを鳴らしたり小旗を振ったり。

こういうのを見てると、選挙権も支持政党もないぼくでも何だか気分が盛り上がってきます。そして、時にはここに劇的な大どんでん返しや暗殺未遂劇までくわわるもんだから、不謹慎だといわれるかもしれないけど、血沸き肉躍るわけです。

 

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イラスト 高橋きのこ

 

ところが今回の選挙、例年とどこか様子が違います。

ひと言でいえば、まったく盛り上がらないというか、あの「決戦」の雰囲気がイマイチ感じられないのです。

で、そこのところを台湾人の友達何人かに聞いてみました。すると、みんな口をそろえたように、「結果が見えてるからね」という答え。

そうです。今回に限っていえば、勝って当たり前のチームと勝つ見込みがほとんどないチームの対戦。といわざるをえなく、盛り上がりたくても盛り上がれない。まあ、強いほうのチームのサポーターなら、そんなことは関係なく、イケイケとばかりに勝利目指して応援できると思うんですが、でも第三者からすれば、こういうのは全然おもしろくないのです(また不謹慎ですみません)。

とにかく、そんなわけで今回の選挙は期待できないと思っていたのですが、最近友達から思わぬ話を聞きました。

「だったら、立法議員の選挙だよ」

そういえば、今回の選挙は初めての、総統選と立法議員選のダブル選挙でした。で、彼女の話では「大洗盤(ダーシーパン)(シャッフル)」が起きそうだとか。つまり、過去何期も当選を続けてた大御所議員が安泰というわけではなく、彼らもそれを察してか危機感を募らせてるとのこと。

で、その原因が「初めて投票する人たち」にあるとか。台湾にはこの4年間、新たに選挙権を得た若者が80万人ほどいるそうで、彼らにしてみたら、大御所の議員なんて関係ない。この票の行方が読めないところが「大洗盤」を起こす可能性があるというのです。何だか一気に興味が湧いてきました(またまた不謹慎ですみません)。

 

さて、何だかんだといいたい放題いってきましたが、ぼくも台湾に暮らす身、実のところは次期総統にはかなり期待してます。

何を期待してるかというと、少しいいづらいんですが、過去の選挙はまさに死闘といった激戦が繰り広げられた反動か、いざ当選すると総統はその時点ですでに目的を達成したかのごとく、燃え尽き症候群と化してしまうことがしばしば。

でも、楽勝が予想される今回はおそらくそんなことはないはず。当然、当選したあとの政策を考える余裕もあるわけで、今以上に社会がよくなるのではと思ってしまうのです。国際情勢も不安なこのごろだけに、どうしてもそんな期待は募るばかりなんですが……。

ともあれ、その前に1月16日の投票日。

今回はどんなドラマが繰り広げられるか、まずはそっちのほうを楽しんでみたいと思います(最後まで不謹慎ですみません)。

選挙の話でした。

(2016年1月号掲載)

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