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偉大な指導者 蔣經國総統

中華民国の現代を推進

(1988年3月号の記事です。現在とは時代が異なるため表現の面での不適切はあるかと存じますが、当時を語る貴重な資料のひとつとして、あえて原文ママで掲載さえて頂きます。編集部)

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4月5日 「清明節」…。
中国人にとって重要な日である。
この日中国人は墓をきれいに掃除し、
先祖の霊をなぐさめる。
ちようど日本のお盆やお彼岸に当たる。でも、
今年は、中国人の人たちには、ひとしお悲しい日である。
敬愛する蔣経国総統が死去されて
初めての清明節だかーらである。
心靜かーに蔣総統を偲ぶ、この日…

文/林慧兒

その日。1月30日、蔣経国総統の国を拳げの葬傣が行われた。台北市の忠烈祠
での簡素な、そしておごそかな式。ご遺族、李登輝新総統はじめ政府、党の幹部
世界各国から參加した代表、日本からは福田元首相も列席した。生前、蔣総統が
愛された桃園県大溪の頭寮賓館に、ご遺休は安置された。忠烈祠から大溪までの
68キロの沿道には約60万人の人が「再見了!蔣総統」(さようなら蔣総統)と淚ながらにお見送りした。まさに全世界の中国人の慟哭する日となった。

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①広く、あらゆる階層の人たちに慕われた蔣経国総統。菊の花に飾られた遺影の前で、多くの人がその遺徳を偲んだ。

台湾の全ゆる階層の人々から愛惜された蔣経国総統は、宿患の糖尿病を病んでいたが、1月13日午後3時55分、心臟発作のため死去された。その前日まで総統府に出勤されていたというから、急逝だった。77歳である。惜しみても余りある急逝だった。それだけに、ひとしお悲しみも深かった。
その悲しみは、とくにこの10数年来、台湾をアジアの新興国家家群(NICS)の優等生にし、政治、経済、文化のすベての分野で、強力な近代国家に成長させた大きな功績の指導者だっただけに深い。
とりわけ、蔣総統は大衆の政治家だった。常に大衆とともにあり、その身辺の清潔さ、「平凡、平実、平淡」を座右の銘とした蔣総統を失った台湾2000万人の人々は、父親の、親族の死以上の悲しみを受けている。

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②父·蔣介石総統と、ともに花を賞でる経国先生。偉大な二人は、中華民国を 強大な国家につくり上げた。

15歳の時から12年間のソ連留学。当時の中ソ関係を反映して、蔣介石総統の長男である蔣経国先生に対するソ連の態度は終始冷たく、辺境に流されるなど文字どおり辛酸をなめられた。だが、この苦境が人格形成期の蔣総統を鍛えて、後に卓跋な指導者ヘと開花する。
そのすぐれた忍耐力、弾力性、大局観は、この逆境の時代から生まれた。
帰国後、父·介石総統のもっとも困難な時期に右腕として助け、一番むずかしい仕事を選んで取組んだ。その本領が発揮されたのは、蔣介石総統が死去された1975年前後からである。1972年、行政院長(首相)に就任してから、本格的な台湾の建設に取組んだ。台湾版到島改造計画といわれる「十大建設」(1970年代)は、台の経済体質をー変させ、現在の発展の原動力となった。
実にこの「十大建設」こそ、蔣総統の持つ大局観、具体的には世界戦略のグランド、デザインの核心の部分なのである。この建設によって、台灣を充実させ、その結果、大陸に対しては三民主義の優位性を証明し、世界的には、国際社会での地位を向上させる構想である。そしてその通り、この構想は開花した。さらに次のステップとして蔣総統は政治改革に挑戦された。経済安定成長下での挑戦は38年聞つづいた戒厳令を解除、新聞発行の自由化、政党結成の自由化、大陸ヘの里帰りの自由化などあらゆる開放政策をつぎつぎと発動した。1人当たり所得5000ドルという共産党下の大陸より12倍もの所得格差をつけた台湾の自信の表明にほかならない。そして、これからの民主化の進展の途中で、死去された。壮絶な戦死というほかない。

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しかし、その遣志はまず2000万人の台湾に住む中国人によって実行され、やが
て台灣海峽を越えて、大陸に結実するであろう。
その後繼の指導者として、李登輝副総統が4時間後に総統に就任、1月27日には国民党の党主席代行も兼務された。
李新総統は、蔣総続みずから養成した人である。1972年の首相就任と同時に閣僚に抜てきして身辺に置いた。78年総統に就任した経国先生は、李登輝氏を台北市長という“現場”に送り込んだ。翌79年には国民党の最高機関、常務委員会メンバーに登用、81年から台湾省主席という台灣全島を“現場”とする最高指導者に任命した。

李登輝・新総統
後継体制も万全“師の道”を歩む

そして、蔣総統は84年に総統に再選された時、憲法上の規定により「総統のー身上に変化が起こった時」のための副総統に任じて、再び身辺に置いた。すでに健康体ではなかった蔣総統にとっては、万全の配置と思われたのではなかろうか。
正、副総統のというよりも、両者の関係は“師弟”といったほうが適切である。
総統就任後、李登輝氏は「すべて蔣総統の指示された方向を進む」ことを何度も語り、“師の道”を歩む決意を表明されている。忠烈祠にご遺休が安置されてから、李総統は毎日、ときには二度も“師”の傍に立った。「何かご啟示がいただけるのではないか」と、語っっている。
したがって、李総統の台湾もこれまでと同じように「蔣経国路線」が踏襲されることは確かであり、安定の下での成長を基本に、引つづ政治改革、行政の能率化、法の精神の尊重など近代国家としての建設の動きをつづけることも間違いない。台湾2000万人の人々は、いま淚を拭きながら、その道を力強く歩み出している。

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⑨蔣総統が死去されて約4時間後憲法の規定によって李登輝副総統が直ちに新総統に就任した。国父孫文先生の遺影に宣誓する李新総統。左は林洋港司法院長
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⑩李登輝新総統

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特集アーカイブ 1989年11月号より

半世紀ぶりの建直し 新しい玄関・台北駅

台灣の新しい玄関·台北新站(駅)が、この九月に完成し
た。この新駅とともに、台北市の繁華街を走っていた鉄道の部分の地下化工事も完成した。二の結果、台北駅を中心に、これまでかつての盛り場として斜陽視されていた西門町、中華路一帯が再開発の対象として再登場すると同時に、台北市交通網整備のー貫として、旧淡水線の地下鉄化などがクローズアツプされてくる。そうした点からみて、台北新駅の登場は、台湾の鉄路史上に大きな足跡を殘した。

交通史上に新足跡 - 6年の歳月 177億元の投資 -

九月二日午前六時二十八分。この時刻もまた台湾の鉄路史上に殘るはずである。新駅から発車した第ー号の列車。屏東行きだった。この列車を工事関係者は、どんな気持ちで見送ったろうか。新駅建設と地下化工事は台北市民の長い間の希望だった。地下化が行政院(內閣)で本決りとなったのがー九七九年である。しかし、この三十年前から多くの計画が出された、現状維持から移転、高架化など四十七ものプランがあった。新駅は総面積一万五千三百三口平方メートル。地上六階、地下四階。写真のように「中国人が設計し、つくった駅」という、シンボルであり、“中国味”がいっぱいだ。

駅ビルの三~六階は鉄路局が使う。二階は商店街。一階が切符売リ場で、プラットーホームは地下二階。地下一階は駐車場や地下街、待合室。地下の三、四階は新開発線路向けに当てられる。列車の発着の掲示板もコンピユーターで操作され、列車の発蒼状況がー目でわかる。新駅はー日十三万人前後の乗降客を含めて約二十万人の使用が見込まれている。

一方、地下化工事の第一段階は台北新駅をはさんで華山駅から萬華駅にいたる全長四・四二キロ。これが今度完成した部分である。第二段階は華山から松山までで、これは今後五年間で完成予定。さらに萬華と板橋間は現在の複線から複々線になるなど鉄路の拡充整備が見込れており、バスや飛行機に押されていた鉄道が、ひさしぶりに陽の目をみる。一九八三年七月の着工から数えて六年。新駅と第一次工事で総工費は百七十七億元(約一千億円)にのぼった。

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駅のデザインにあふれる中国感覚。中華民国の陸の玄関にふさわしい。

ところで、新駅が完成してお目出たい、とばかりいって、しれないのが鉄路管理局。毎年、駅や地下路線の管理費が三億元もかかるほか、商店街の家賃や駐車場料金、プラットーホームの広告などの収入増があるものの三階以上の駅ビル費用も大きく、昨年に比べて五億元も多い赤字予算を組まなければならない。日本と同じように、赤字の鉄路局にとって、頭の痛い問題となっている。

鉄道できて102年 台北駅改修3度目

台灣に初めて鉄道が建設されたのは一八八七年。清の光緒十三年、初代の劉銘伝巡撫が台湾に着任してからである。最初は基隆~新竹間に着手された。これが完成するのは六年後のー八九三年である。
日本の台灣統治はー八九五年からだから、その直前に完成した。その後一九○七年には高雄までの縦貫鉄道が完成している。

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1940年に改築された駅。約50年近くもご苦労様でした。

日本時代になって、台北駅は二度改修されている。ー九○ー年とー九四○年である。このー九四○年の駅がずっと四九年間使われてきた。
ついでながら、台北新駅から近い台湾省立博物館には、台灣の鉄道の創設期に走った機関車が陳列されており、マニアには見逃せない。もちろん蒸気機関車で二両ある。、うちー両はー八七七年につくられたドイツ製。中国大陸の最初の鉄道、上海~呉淞間を走った。基隆-新竹間で活躍、一九二四年に“引退”した。
もう一台は日本と関係が深い。一八七一年の英国製だが、翌七二年に“汽笛一声新橋のー“で有名な新橋-橫浜間を走った十両のうちのー両。台湾に持ち込まれて、一九二六年まで縦貫鉄道を走リ抜いた。

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よみがえるのか 西門町・中華路

鉄路の地下化によって、台北市の西の部分の繁華街にあった十三もの踏切りが姿を消した。台北市の交通の大きな障害のひとつに数えられたものがなくなったのである。昨近の台北市の交通混の現状からいえば、このプラスが大きい。
踏切りの維持費や待ち時間のためのロスが毎年七千万元余りもかかった、という教字もあるが、踏み切りで待つ間、ふかすガソリンの量や空気汚染などを計算に入れれば、損失はずっと多いはずである。

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西門町の傍を走っていた線路。撤去されてニューランドに。

いま関心が集まっているのは、地上路線の撤去で、新たに生れる土地十二
万九千平方メートルがどう利用されるか、である。六十七億四千八百万元の地価と
推計されている。このうち、商用地辷して三万平方メートルが予定されているが、残りは公園、広場、散歩道など公共用に使われるか、具体的計画が近く明らかになろう。
さらに、伝統の盛リ場·西門町の再開発もクローズアップされてきた。このところ、台北市は東ヘ東ヘと拡大し、これにつれて、商店街、デパート群も“東門町”と呼ばれる忠孝東路四段に集中してきた。
確かに西門町は、いまでも日曜日や祭日には三十万人もの人波を集めては
いる。しかし、町並みは古く、やぼったく、ナウいヤングたちの足が遠いているのも事実である。こんどの新駅の誕生や地下化をきっかけに再開発がピツチを上げはじめた。
さらに中華路の古めかしい「中華商場」も取リこわしが決っている。こうした潮の変化をとらえて、台北のマスコミは“西地区の第二の春”と報じた。果たして第二の春となるのかー

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