Category: Column

特別コラム:人生を変えた台湾環島

2016年秋、台湾で突如注目を集めた日本人がいるのをご存じだろうか。名前は伊藤千明、18キロのリュックサックを背負い、いわゆるバックパッカーとして台湾を旅した。移動手段は徒歩。テレビで取り上げられたことをきっかけに、片言の中国語を駆使してフェイスブックにアップした旅の模様が反響を呼んだ。楽しいだけではなかった彼女の旅を支えたのは台湾の風景、人情、そして「満漢大餐」。台湾の旅が彼女の人生に与えたものは……?

 

「観光スポットだけじゃイヤ!」~台湾一周、一瞬一瞬を楽しみたい

「台湾、ずっと避けていたんです」

開口一番、伊藤千明さんはそう言った。身長155センチの小さな身体、笑顔が愛らしい彼女がよく旅したのはアジアの発展途上国。バックパックを背負い、一人出掛けていた。その旅のリストに加えるには台湾は都会過ぎた。物足りないのではないかと思っていた。けれど周囲の人は、台湾に旅しては口々に絶賛する。家族も同様だった。次第に心は傾き始めた。「行ってみるのも面白いかもしれない」。

環島(ホワンダオ)――中国語で島を周回すること。台湾では本島をぐるりと回る旅を指す。この言葉を聞くと、なんだか南国の青い空と緑の木々が頭に浮かぶ。心地よい風がふわっと心に吹いてくる。多くの人がそう感じるのか、台湾人の間ではバイクや自転車で回るのが人気であり、近年ではそれに倣う外国人も少なくない。彼女もそんな旅に惹かれた。だがただ一つ、交通手段を持たないという点で彼らとは違っていた。

彼女にとっての旅とは、その土地の何気ない景色を見ること、そこに暮らす人と触れ合うこと。電車やバスで観光地を巡る旅は退屈に思えた。移動時間が無に感じられた。だが歩いて回れば、瞬間瞬間が見知らぬ風景や人々を感じられる旅となる。移動する行程そのものを楽しみかった。

 

「どうして私が有名人に?」~一晩明けたら時の人?

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旅の安全と成功を祈って・・・龍山寺をいざ、出発~!

2016年10月8日、旅の安全を祈願し台北龍山寺をスタートした。まずは西側を南下する。しかし開始早々アクシデントが。警察に連れて行かれたのだ。日が暮れ、桃園のとある公園にテントを張って休んでいた時のことだった。見回りの警察官がやって来てパトカーに乗り込むように促す。

――逮捕される!?

中国語も英語もそれほど得意ではない。派出所に着き、身を案じた警察官が寝床を提供してくれたのだとようやく知った。「台湾人に心配をかけてはいけない」――以降、テントは手放し、夜間に屋外で休むことは止めた。

日月潭へ向かう途中では宿泊予定の寺が改修中だった。今度は自ら派出所に飛び込んだ。うまくコミュニケーションが取れず、次々と助っ人が現れるのは台湾ではよくあること。その中の一人がTV関係者だったらしく、ニュース番組に取り上げられた。

一人ひっそりと旅するはずが、一躍有名人になってしまった。行く先々で多くの人に声を掛けられた。記念写真を撮ってSNSにアップされることは日常茶飯事。高雄では台湾茶を飲みに来ないかと誘われ、墾丁ではバイカ―たちのツーリングに飛び入り参加した。誰も知っている人などいない台湾だったが、一人また一人と手を差し伸べてくれる人が現れた。台湾の人々の温かさを感じた。

 

誰のための旅?」~元気をもらったカップラーメン

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台湾最南端の墾丁

最南端に着き旅も中盤。墾丁から折り返し今度は北上かというころからだんだんと気分は沈んでいった。多くの人に声を掛けられることはうれしくもあるが、妙な気負いも増してきた。自分が楽しくあるために始めた旅なのに、思わぬ注目を浴びて感じるプレッシャー。加えて東部に関する情報は少なく、出逢う人も口々に太魯閣(タロコ)は危険だと言った。気持ちは萎えていった。

そんな時、よく手に取ったのはコンビニの棚に並ぶ「満漢大餐」のカップラーメン。出逢いは旅支度のために赴いた台北のスーパーだった。食品コーナーでイチオシされていたので何気なく手に取ったのだと言う。食べて感激。パウチパックの中にはゴロゴロとした肉の塊。香辛料が苦手な彼女にとってはクセのないスープも口に合った。何より温かいスープは疲れた身体に染みた。それから幾度となく手に取り元気をもらってきた。今回も同じだった。降り続く雨の中、麺をすする。先を考えると憂鬱な想いも過ったが、温かいスープを一口含むと、ほっと心も癒やしてくれた。

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幾度となく元気をもらった満漢大餐のカップラーメン

 

「ヤッター、ゴール!」~そして第二章の始まり

そして再びゴールを目指し歩き始めた。彼女はさぞかし胆の据わった人物なのだろうと尋ねてみれば、「ビビりなんです」と笑う。そして躊躇したという太魯閣がこの旅一番の思い出に残る絶景だったと語る。そんな伊藤さんの旅は2016年12月18日、出発地の龍山寺に戻り、無事ゴールを迎えた。72日間の旅だった。

旅を終え、彼女を取り巻く環境は大きく変わった。現在は予てより計画していた中国語の学習を開始。台南にある国立成功大学の語学センターで日々学習中だ。そしてもう一つ、旅の途中で出逢った台湾人と結婚、新婚生活をスタートさせたと言う。さらにはこの旅で一番のお気に入りの台湾の味「満漢大餐」のメーカーが、彼女の環島の様子に興味を持ち、あらためて映像を撮ることが決定したそうだ。旅の途中につぶやいた一言から始まったシンデレラストーリー。だが本人はいたって冷静に「わらしべ長者の気分」と、あっけらかんとしている。

面白いことが待っているかもしれないと何気ない気持ちで始めた台湾環島。しかしこの旅が台湾での新たなる扉を開いた。人生の伴侶との旅はもうすでに始まっている。

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墾丁の美しい風景。映像内では、彼女が旅した台湾各地の風景が見られる。
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ブレスタイプのお守りは旅の安全を願って自ら龍山寺で購入。その他は道すがら出逢った人からのプレゼント。旅を支えてくれた思い出の品であり、今でも大切に保管している。

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スーパーで偶然手に取った「満漢大餐」が旅の大切な食糧源&心の糧に。お気に入りは蔥燒牛肉麵味。パウチ入りの塊牛肉が「口の中でほろほろとほぐれる食感が好き♡」なんだとか。お湯は少なめに注ぎ濃いめで味わうのが千明流。満漢大餐は台湾で売れている牛肉麺で、アジア各国でも大人気。訪台観光客のマスト買い商品だ。

 

滿漢大餐とのコラボで再現した旅の映像はこちら!

 

取材・文:林綾子/写真提供:伊藤千明

(2018年2月号掲載)

 

好兄弟

擴音器 台湾語は北部、中部、南部と各地方、各家庭によって発音が異なることがあります。ここでは、異なる地方出身の台湾語ネーティブの発音を複数収録しました。

[台湾語]好兄弟

   (ホーヒャンディ)

擴音器

[日本語訳] 亡霊、幽霊

 

[例文]  你拜好兄弟抑未?

(リ バイ ホ ヒャン ディ ヤッ ベッ)

擴音器

 

[台湾華語]  你拜好兄弟了嗎?
(ㄋㄧㄧㄅㄞㄞㄏㄠㄠㄒㄩㄥㄉㄧㄧ˙ㄌㄜ ㄇㄚ)

[日本語訳] 好兄弟を供養しましたか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

台湾では旧暦の7月のことを鬼月(guǐ yuè)といいます。旧暦なので、西暦に直すと毎年時期が違います。

2017年だと8月22日から9月19日。旧暦の7月1日になると、鬼門關(guǐ mén guān)、つまり地獄の扉が開き、あの世から霊が人間界に戻ってきて、現代風に言えば、一カ月の夏休み(?)を満喫することができるとされています。

陰間(yīn jiān)つまり「あの世」からやってくるのはご先祖様の霊だけではありません。鬼(guǐ)、つまり亡霊、幽霊も一緒にやってきます。その鬼のことを婉曲な表現として台湾語で「好兄弟(ホーヒャンディ)」と呼びます。華語では好兄弟(hǎo xiōng dì)と発音します。中華圏には「四海之內皆兄弟」、つまり「四海の内のみんなは兄弟なり」という思想があります。真偽は不明ですが、「あの世からやってきた存在とも兄弟のように仲良くしましょう」という発想から来た表現かもしれません。「兄弟なら、むやみに自分たちに危害を加えないだろう」という牽(けん)制もあるかもしれませんね。

「好兄弟(ホーヒャンディ)」にとっては、年に一度人間界で息抜きができる絶好のチャンスなわけなのですが、よし!ここぞとばかりに暴れてやろうと思われたら、困るのは人間界にいる我々です。一カ月の間、お腹いっぱい召し上がってもらって気持よく、おとなしく満足な気分で冥界にお帰りになってもらいたいので、ご馳走=お供え物を用意して普渡(pǔ dù)と呼ばれる儀式でもてなします。
この時期になると、毎日あっちこっちの家庭、店先、オフィスなどの入口前に四角いテーブルを広げてお供え物や料理など並べて拜拜(bài bài)、つまり「お祈り」をして供養する人たちの姿をよく見かけます。中でももっとも盛大に拜拜が行われるのは旧暦の7月15日、中元普渡(zhōng yuán pǔ dù)の日です。中華圏における一大イベントです。

ところが、拝む相手が相手ですから、タブーや注意点が幾つかあるのを覚えておきましょう。まず、時間帯ですが、午後2時から7時までの限定です。香蕉(バナナ)、李(スモモ)、梨(ナシ)の3種類の果物を同時に供えてはいけません。なぜなら、蕉李梨の台湾語発音は「招你來(ジョリライ)」、つまり、「おいでくださいませ」と同音です。鬼に家の中に居座られてもあまり気持ちのいいものではないですよね。また、みんなが大好きな鳳梨(パイナップル)もできれば避けるべきとされています。パイナップルの台湾語の発音は旺來(オンライ)と同音で、商売が繁盛したり、運勢がますます上昇気流に乗るという意味の縁起の良い供え物ですが、「好兄弟(ホーヒャンディ)」にますます元気になられても困りますからねえ。

逆に、よく見られるお供え物が、洗面器に水を入れてタオルや歯ブラシなどを用意するというもの。これは体をきれいにしてもらってリセットしてほしいという意味合いを込めているそうです。

拜拜の場所も大事です。家の中やベランダなどでは絶対駄目です。通常は建物の入口の外です。鬼に家の中に入ってきてもらっては困りますからね。

ともかく鬼月の期間中は、目に見えないのですが、現世は「好兄弟(ホーヒャンディ)」で溢れ返ってっているはずですから、人間はおとなしくじっとしているのが一番いいとされています。

(文:趙怡華/2017年8月号掲載)

第39回 連続劇の話

年の旧正月休み、連続劇(リエンシュージュー)(ドラマ)のDVDを見ました。
1回1時間、全部で20回だったんですが、実は見はじめたのはかれこれもう一年ほど前のこと。そのあと見ては止めての繰り返しで、なかなか全部見ることができなかったのを、覚悟を決めて残り数回分を一気に見たのです。

ところで、ぼくは普段、連続劇をほとんど見ません。
唯一見るのが公視(ゴンシー)の作る、台湾の文学作品や少し前の中国を舞台にしたもの。これは脚本も役者もしっかりしていて外れがありません(こういうのこそ、日本でも放映したらいいと思います)。

話は少しそれましたが、とにかくぼくは連続劇を見ない。
で、その理由は簡単。見はじめたら見続けなきゃいけないと思ってしまうからです。特に途中まで見ておもしろくなかったとき、普通なら「もうやめた」と放っぽり出すんでしょうが、ぼくの場合、「せっかくここまで見たんだから」ともったいなくなってしまって、そのあと一向におもしろくならなくても止められない。頼むから早く終わってくれと願いながら延々と最後まで見ることになるのです。

いちばん気をつけなきゃいけないのは、毎日ゴールデンタイムにやってる2時間の連続劇です。

毎日2時間。考えただけでも恐ろしいんですが、それでもってこれが何と2年とか続いたりする。こんなのを見はじめた日にはたいへんなことになってしまいます。


湾には連続劇が好きな人がたくさんいます。
ぼくの友達の中にも三度の飯より好きだという人がいて、彼女は日本のものや韓国のものを中心に常に数本同時進行で見ています。
で、「そんなにたくさん、いつ見てるの?」と聞くと、返ってきたのが「休みの日」という答え。
でも休みの日っていったって、そんなにたくさん見られるわけでもないだろうと思って、さらに突っ込むと、
「大丈夫。1日に4回分見れば、土日で8回分見られるでしょ」
「ええっ。1日4回分って……、単純に計算して4時間だよ。4時間の間、何もしないでDVDのドラマを見てるってこと?」
「何もしないで見てるわけじゃないよ。見るときはお菓子とか食べながらだよ」
そういう問題じゃないと思ったんですが、いうのはやめました。彼女の話し方では、4時間見るってことのほうは全然問題じゃなさそうに思えたからです。
でも、ふと思ったんですが、彼女のような人はNHKの朝の連続テレビ小説みたいに1日15分だけを毎日見るってことはできないんじゃないでしょうか。「何、もう終わり?」とか思ったりして(ぼくなんかはこっちのほうが有り難いんだけど)。
まあ、どっちにしたって彼女の場合、ドラマを見るってことについては、気合と体力が、ぼくとは全然違うと実感したのでした。


て、そんな彼女、6日間あった旧正月休みにはどのくらい見たんだろうって気になったので聞いてみました。すると、こんな答えが。
「1本だけだよ」
これにはぼくも意外な感じがしたので、もう少し聞いてみました。
「やっぱり正月だし、友達とか親戚とかにも会わなきゃいけないだろうし、忙しかったから?」
「ううん、その1本が結構長かったから。でも、おもしろかったよ」
彼女のいう1本とは1回分という意味じゃなくて、作品ひとつってことだったようです。で、その1本というのが『真田丸』。しかも、第1回から最終回まで、全部で50回以上を一気に見たとのこと。
やっぱりぼくが考える次元を遥かに超えていました。

(2017年4月号掲載)

阿桑

擴音器 台湾語は北部、中部、南部と各地方、各家庭によって発音が異なることがあります。ここでは、異なる地方出身の台湾語ネーティブの発音を複数収録しました。

[台湾語]阿桑

(アサン)

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[日本語訳] お年寄りに対する敬称

[例文]  阿桑、借問一下。

(アサン、ジョモンジッレ)

 擴音器
[台湾華語]  阿桑,借問一下。
(ㄚˋㄙㄤ,ㄐㄧㄝˋㄨㄣˋㄧㄒㄧㄚˋ)

[日本語訳] すみません、ちょっとお聞きします。

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台湾に行くと思ったより日本語の単語が飛び交っていることにびっくりした経験がありませんか?

黑輪(オレン=おでん)、天婦羅(tiān fù luó=天ぷら)、ネクタイ、セビロ……などなど、日本語の発音のままだったり、日本語から借用して新たに台湾的な表現になっていたり、すでに日本で使われない死語だったり、このテーマで何本も論文が書けるぐらい、台湾社会には日本語の単語が充満しているのです。

今回は、日本語から借用した台湾社会にしっかりと根付いている表現を紹介したいと思います。

ご存じ、台湾社会では家族親類について、日本語以上に細かく呼称が決まっています。例えば、母の姉妹は阿姨(ā yí)、父の姉妹は姑姑(gū gu)、母の兄弟の妻は舅媽(jiù mā)、父の兄弟の妻は嬸嬸(shěn shen)、とそれぞれ呼称が違いますが、日本語ではいずれもおばさんですよね。

ところが、親戚以外の年配の女性に対する呼称は、台湾華語にも台湾語にも存在していませんでした。そこで、日本語から「おばさん」を取り入れ、漢字を当て、歐巴桑(オバサン)となったんです。男性のおじさんの場合は歐吉桑(オジサン)、もしくは歐里桑(オリサン)となりました。「~桑」は日本語の「~さん」の当て字です。台湾社会で多用されています。例えば、「媽媽桑」はママさん、「多桑」は父さんなどです。

さらに、台湾では人にニックネームを付ける際に、その人の名前の一文字の前に「阿」を付けて呼ぶ傾向があります。その傾向の延長線で、歐巴桑や歐吉桑の桑の前に阿を付け、「阿桑(アサン)」となります。性別に関係なく、お年寄りに対して使える呼びかけの表現として台湾社会に定着しています。ちなみに、台湾華語も台湾語も「阿桑(アサン)」と発音します。

ところで、お年寄りとはいっても、みんなそれぞれお年寄りに対する定義が違いますので、自分の目にはお年寄りに見えて、安易に、歐巴桑(オバサン)や「阿桑(アサン)」と呼びかけると、相手から(特に女性?)、何を失礼な!?と怒られてしまう可能性があるので、要注意です。

私的には、普遍性のある阿姨(ā yí)のほうをお勧めします。

(文:趙怡華/2017年6月号掲載)

 

第38回 となりにいます

湾では日本語を勉強する人が少なくありません。
仕事とかで特に必要というわけでもないんだけど、ただ何となく興味があるので。そんな理由から、結構みんな日本語を勉強しています。
つい数日前、MRTに乗ったときの話です。
若い男女の二人連れ。座席に座っておもむろに日本語検定試験の問題集を広げてました。で、彼のほういわく、
「これ、どうしてこの答えなの?」
「うーん。わかんないけど、何かおかしいよね」
どうやら問題の解答に納得してないようでした。
その様子を、ぼくはすぐとなりの席から眺めてました。でも、ぼくの位置から見えるのはカッコの中に適当な言葉を入れる四択の問題があるということだけ。それが精いっぱいで、問題の内容までは見えません。
― どんな問題? 何がわかんないの?
ぼくの好奇心は徐々に頭をもたげ、さらにそれは「何故聞いてこない? 答えがここにあるじゃないか」と進化し、最後には「えっ、日本語の問題? どうしたの?」なんて今偶然気づいたような素振りで何気なくこちらから声をかけてみようかと思ったり。
でも、このときふと頭をよぎったのが、変なおじさんがいきなり声をかけてきたら、彼ら、絶対にびっくりするに決まってるということ。きっとお節介だと思うだろうということ(実際にそうなんだけど)。とにかく間違っても感謝されることはないと思ったのです。
というわけで、結局声は掛けず。彼らはその後も、ああでもない、こうでもないと討論を続けたのでした。


んなふうに、すぐとなりにいて、こっちはわかってるのにあっちはわかってないというケース。たまにあります。
そして、そんなケースではたいていがイライラしてストレスが溜まるんですが、この前、こんなことがありました。
忠孝東路のしゃれたイタリアンレストラン。ぼくのすぐとなりの席には日本人の女性がふたり。年齢は見たところ30代の後半から40代の前半、きれいに着飾ってランチといった感じでした。
で、彼女たち、大きな声で笑いながら楽しそうな会話。完全に弾けてる状態です。
まあ、最近の台北は街中で日本人に会うことは日常茶飯事なので、特に気にすることもなくメニューを見ていたのですが、いつの間にかそれどころではなくなりました。
聞こえてくる彼女たちの会話。ここでは書けないような面白い話が赤裸々に飛び交っていたからです(内容はご想像にお任せします)。日本だったら公の場でこんなことは話さないと思うんですが、おそらく周りはだれも日本語はわからないだろうという安心感からか、ついつい無防備になっていたようです。
ぼくの耳はどんどん大きくなります。視線はずっとメニューに落ちたまま、でも、何も見ていません。
ところが、しばらくそんなふうに盗み聞きをしていると、突然ぼくの携帯電話が鳴りました。日本人の友達からです。
「もしもし」
ぼくが一言そういった途端、周囲の空気が凍りました。
それまで弾けてたとなりの女性の会話が一瞬で静まり、その後はふたりとも声を発しません。
パキーン。
まるでディズニー映画『アナと雪の女王』で一瞬にして風景が氷の世界に変わったときのようでした。


れ以来、ぼくは特に気を付けるようになりました。
MRTやバスの中でも、レストランでも、街を歩いているときでも、台湾では日本語だからだれもわからないというのは勝手な思い込みだということを。
「何やってんだ。このバカ」。心の中で思っても、それはゴクリと呑み込みます。人間修行のよい機会だと思いながら……。

(2017年3月号掲載)

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心から愛すべき台湾の朋友たち 第36回 味覚の話

年明けましておめでとうございます。

日本では新しい年のはじまり、希望に胸膨らませてる方も多いのではと思いながら、ふと振り返ってみると台湾は忘年会シーズンの真っただ中。当分は飲んだり食べたりの日々が続きます。
さて、この忘年会ですが、料理の中で必ずといってよいほどお目に掛かる定番の一品があります。
刈包(グアバオ)です。

刈包というのは脂身のしっかりついた豚肉の醤油煮を平らっぺったいマントウではさんで食べるものです。よく「台湾のハンバーガー」なんていわれたりするんですが、おもしろいのはその味つけで、醤油煮のしょっぱさの上に何故か甘いピーナッツ粉、これがバサっとかかってます。
で、この味、しょっぱさと甘さのハーモニーといえば聞こえがいいのですが、ぼくからすると、お互いの主張が強すぎてハーモニーとは程遠いもの。どっちかというと不協和音としか思えないのです。
ところが台湾人の友達に聞くと、これが「おいしい!」と、一点の迷いもない自信に満ちた答えが返ってきます。
「口の中でふたつの味が一体となって深みのある味になるんだよね」
これ、まさに、しょっぱさと甘さのハーモニーそのものです。
でも、おかしなもので、ぼくが食べると、どうしてもそんなふうにはならない。やっぱり口の中でしょっぱいのと甘いのが戦ってる……。
ょっぱいのと甘いのといえば、台湾にはこの手の組み合わせはほかにも少なくありません。
たとえば結婚祝いに配る喜餅(シービン)。
黄金色の皮の中身は小豆餡というのが一番よくあるパターンなんですが、中には小豆の中に肉鬆(ロウソン)(肉でんぶ)がぎっしり詰まってるのもあります。
で、これを一口食べたときの感想はというと、
「……」
そう、すぐに感想が出てこないというのが感想です。
これは果たしてしょっぱいというのか、それとも甘いというのか、認識できない。かといって、前にどこかで食べたことがあるかもしれないと、記憶の引き出しを引っ掻き回しても思い出せない(これが、しょっぱいと甘いが完全に混じり合って一体となっていれば「甘辛い」として違和感なく受け入れられるのですが……)。
ナツメ餡の中に塩漬け卵黄の入った月餅(ユエビン)なんかもそうです。
めちゃくちゃ甘いナツメ餡としょっぱい卵黄の組み合わせ。そもそもこのふたつをいっしょに食べるという発想がどこから出て来るのか。卵黄が中秋の名月を表してる、といえば何となく納得できないこともありませんが、それでもこの味の組み合わせ、やっぱりぼくには理解不可能です。
て、塩漬け卵黄といえば、最近おもしろい話を聞きました。
連日大量の観光客が押し寄せるお土産店で、看板商品のパイナップルケーキに塩漬け卵入りが登場したというのです。
パイナップルの甘酸っぱさと塩漬け卵のしょっぱさ。作った側としては絶妙のハーモニーが市場で受け入れられると思ったのでしょうが、果たしてお客さんの購入状況はというと、これが日本人観光客はほとんど見向きもしなかったとのこと。彼らが買うのは普通の味、つまり塩漬け卵なしの甘いだけのものでした。
やっぱりそうだろ。そんなの作るから売れないんだよ。
それを聞いたとき、ぼくは自分の味覚の正しさを改めて確認するとともに、何となくうれしくなったのでした。
ところがよく聞くと、この塩漬け卵入りのパイナップルケーキ、日本人観光客には総スカンでしたが、中国人観光客には大好評で、飛ぶように売れているとのこと。
で、こうなると、何が何だかまたわからない。もしかしたら日本人にはわからない深い味わいがあるのかも……。
そんなことを思いながら、この味の魅力についてもう一度考えてみようと思うのでした。

(2017年1月号掲載)

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第37回 騒音で思うこと

暦の大みそか、夜中の12時が近づくと聞こえてくる爆竹の音。はじめはどこか遠慮がちにババババッと単発音が聞こえたかと思うと、それに釣られるかのようにほかのところでもババババッ。で、ちょうど12時に差し掛かったその瞬間、堰を切ったかのように、

ババババッ、ババババッ。
パパパパッ、ババババッ。
ヒュー。ヒュー(これは衝天炮といって、かなりうるさい)。
ババババッ、パパパパッ。

これがしばらくの間続きます。
ぼくなんてはじめてこれを聞いたときには、どっかから爆撃機が大群でやって来て、市内一掃爆撃がはじまったのかと思ったほど。とにかく耳をつんざく迫力満点の大爆音です。

でも、一部ではこの爆竹の音、真夜中にうるさい、空気汚染になる、近所迷惑だ……。などということで禁止を求める声も聞かれます。現に中国なんかでは、かなりの都市で爆竹禁止令や制限令が出されてたり(ちなみに台北については学校や医療機関、文教エリアの半径50 メートル内を除けば、旧暦大みそかは爆竹OKらしいです)。

まあ、大みそかの爆竹、たしかにうるさくないとはいいません。ただ、ぼくとしては年に一回のことだし、何といってもおめでたいことでもあるんで、心情的には「いいんじゃないかな」なんて思ったりするんですが……。


 うるさいってことでいうなら、ふと思い出したんですが、爆竹なんかよりずっと近所迷惑なのが昔よくあった街中での葬式です。

その辺の道端とかにビニールシートで囲んだ張り出しテントのような葬儀場を作って、そこで読経。さらには、チャルメラを吹いたり銅鑼や太鼓を鳴らしたり。と、これだけでも騒音公害と呼ぶには十分なんですが、中にはこの儀式を決まった日の決まった時間に行わなきゃいけないっていう習慣があるらしく、それが時には深夜の12 時だったり早朝の4 時だったり。とに
かく何でこんな時間にやるんだと思う時間にいきなりはじまることもありました。

そして、一旦これがはじまると、うるさくてテレビの音は聞こえないし、寝てたとしたら絶対に起こされる。一度なんかは我慢できなくなって、警察に通報しようとしたこともあります。でも、当時のルームメイトの台湾人が頼むからそんなことしないでくれって。で、どうしてだと聞くと「だって葬式なんだから、仕方ないよ」とのこと。

まあ、言い分はわからないでもありませんが、それでもこっちにとっては我慢できる範囲を大きく超えた暴力的な騒音。こんなのが延々と続いた日にはたまったもんじゃない。そのときは本気でそんなふうに思ったものです。


も、こんな台湾伝統のうるさい葬式もいつの間にかほとんど見なくなりました。これについては拡声器を使っちゃいけないとか、音量が一定の基準を超えてはいけないとか、時間制限があるとか、道路使用に関する申請を出さなきゃいけないとか、いろんな規則ができたからかもしれません。

まあ、これも台北が近代都市になっていく過程のひとつ。一種の時代の流れといってしまえばそれまでなんでしょう。社会全体で個人の権利が重視されるようになって、これによってみんなの生活が快適になっていく。たしかにいいことなのかもしれません。でも、そのせいで古い伝統はひとつずつ消えていく。やっぱり寂しいものがあります。そういえばここ数年、ぼくが台湾に来たばかりのころに比べると、大みそかの晩の爆竹の音も心なしか謙虚になったような気がします。

(2017年2月号掲載)

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第35回 引っ越しの話

最近引っ越しすることになりました。

振り返ってみると、引っ越しはなんと11年ぶりのことです。

日本とくらべて台湾は安く引っ越しができるので、ぼくなんか来たばかりのころは、数か月ごとに引っ越していました。が、それが長くいるにつれて物も家族も増えて、そう簡単には引っ越しできないというか、できればしたくないと思うように。
ところが、今回は大家さんがぼくの住んでるところを、息子夫婦に住まわせたいということで、ぼくらは出ていくことを余儀なくされたのです。
さて、久しぶりに家探しをしてみて、まず驚いたのが家賃です。
実はぼくが住んでるところ、入居時に賃貸契約というものを交わすには交わしたんですが、契約満了になっても契約の継続というのをしていません。だから、11年間入居したときの家賃でずっと来ていました。で、その家賃がぼくの中ではひとつの基準になっていたんですが、とんでもない時代錯誤でした。
この11年間に台北の家賃は驚くほど上がっていたのです。
ぼくが住んでるところよりも、条件的にどう見てもランクは下で、しかも丁寧に使ってないもんだからボロボロな家が、信じられないような強気な家賃。
大家さんいわく、
「最近は物価も税金も上がってるし、しょうがないね」
うーん、でも、給料は上がってないんだし……。思わず突っ込みたくなりましたが、悲しいかな、これはたぶん聞いてもらえない。
ところで、以前から思ってたんですが、台北の不動産価格って、みんな買ったときから下がることはないと確信してるようです。家は古くなっても、価格は上がって当たり前。どうもそれが台湾社会の一般常識のような気がしてなりません。
ほかにも気づいたことがあります。
貸し出す家について、どの大家さんも例外なく、いいことしかいいません。
まあ、少しでもいい条件で貸したいという気持ちはわかるので、それを否定しようとは思いませんが、それにしても都合の悪いことは一切いわないというか、それ自体がまったくなくなってる。その見事な「消えぶり」は感心してしまうほどです。
たとえば、築40年以上、エレベーターもなくて都市ガスも来てない。小さいのにくわえて間取りも悪く、窓の外はとなりの家がすぐそこまで迫ってるような家。それでも大家さんは「ここは交通が便利だから」の一点張り。
さらに、都合が悪いことを突っ込まれたときも、「えっ、こう来たか」と思うような切り返し。
「この部屋、クーラーは付けてもらえるんですか」と聞くと、「ここはホントに涼しいんだよ。だから大丈夫」とか、外は一面ハトの糞害にやられてるのを見て、「こりゃひどいね」というと、「ハトは平和の鳥だから、縁起がいいかも」とか。
とにかく「ホントにそうなの?」というような答えが平然と返ってくるのです。
でも、こういう大家さんが悪い人かといえば、決してそんなことはありません。
彼らがこんなふうにいうのも、おそらく、交渉の段階でひとつでもよくないことがあると、とことんそこを突いて家賃を値切る人がいるからじゃないでしょうか。だからそれに対する防波線。そんな感じだと思います。
というのも、交渉ではああでもないこうでもないといってる大家さんですが、その合間に世間話をすると、急に親切な一面が垣間見えたりすることもあるからです。そして中には、家賃を少し下げてくれるなんてケースも。で、一転して「いい人じゃん」と思ったり。
ただ、せっかく下げてくれた家賃も、ぼくの予算とはかなりの開きが……。
結局、大家さんの好意に申し訳ないと思いながらも契約には至らず。台北の物価の高さを恨みながら家探しは続くのです。
この原稿が掲載となるころには無事、新居が見つかってることを願ってます。

(2016年12月号掲載)

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第33回 日本人でしょ?

うちの近くの公園です。

ロータリーのように丸くなった広場があって、そこでは毎日何十人ものお年寄りが大音量のスピーカーから流れる掛け声にあわせて運動してるんですが、ある日、散歩がてらにそこを通ると、まったく風景が変わっていました。
集まってる人たちがいつの間にか若返っていたんです。手にはスマホ、目はそれに釘づけ。みんながみんなそんな感じなんで、傍から見ていてちょっと異様な光景でした。
でも、すぐにわかりました。
ここのところ話題になってるやつ、ポケモンGOです。
ぼくもニュースなんかで、ポケモンGOが世界的に盛り上がってることは知ってたし、それが台湾ではじまったことも知ってたんですが、聞きしに勝る盛況ぶり。で、いったい何がそんなに彼らを熱狂させるのか。ぼくの好奇心が一気に頭を擡(もた)げてきたのでした。
ちなみに、そのときぼくはポケモンGOの遊び方を知りませんでした。それどころかポケモンもほとんど知らない。っていうか、知ってるのはピカチュウだけ。
で、このことを台湾人の友達に話すと、こんな説明が。
「みんなポケモンを探してるんだよ。見つけたら、ボールを投げて、うまく命中したら捕まえられるから」
「ボールを投げる?」
「だから、アニメの中で投げてるでしょ」
「そうなの?」
ところが、ぼくのこの答え、彼女は想定してなかったらしく、「えっ、知らないの? 日本人でしょ?」と、何か物珍しいものを見るような目つきで、ぼくのことを見たのでした。

「日本人でしょ?」というのは、ときどきいわれることがあります。
台湾の人からすると、日本人ならこれは知ってて当たり前と思うことを、ぼくがたまたま知らなかったりしたときです。
でも、知ってて当たり前という基準についてはかなり無茶苦茶なこともあります。
たとえば、日本のどこか地方の小さな町へ旅行に行って帰って来たばかりの台湾人の友達から「あそこはいいよね」なんていわれたとき。「それどこ?」なんて返事すると、「えっ、知らないの? 日本人でしょ?」が飛んで来る。
ほかにも公務員の給料はいくらかとか、東京の市街地の不動産価格はどのぐらいとか。
もちろん、ぼくは公務員をやったこともないし、都内に不動産なんて持ってないので、そんなこと知るわけもないんですが(こういうのって、ぼくじゃなくてもほとんどの日本人が知らないと思うんですが……)、そんなことはあまり関係ないらしく、日本人だったら知ってるはずだと思う人もいるようです。
そして、ぼくにとって、この現象がもっとも顕著に現れるのが日本のドラマやアニメの話をしたときです。
普段から日本のドラマやアニメを見ないぼくは、彼らの話にほとんどついて行けません。一方、彼らのほうはというと、それが三度の飯より好きだったり。そんな彼らからすると、ぼくの反応はもどかしいというか、いらいらが募るんでしょう。というわけで、たびたびぼくは日本人であることを疑われてしまうのです。
さて、前述のようなケースで「日本人でしょう?」といわれて、ぼくはどう思うかというと、これがそんなに気にはなりません。「オレはドラマは見ないんだ。アニメも見ない」と、ある意味開き直ることができるからです。
ところが、そうはいかないケースもあります。
ぼくから見ても、日本人なら常識的に知ってるだろうと思われることを聞かれた場合です。
東京の人口ってどのぐらいとか、消費税って何パーセントとか、今年平成何年とか……。
大まかなところはわかるんだけど、普段身近に接してないから自信がない。こんなときは何ともいえない劣等感を感じながら、適当なことも言えないし、「うーん、それは……」とか何とかいってお茶を濁すのです。
台湾に長く住んでて、こんな経験をしたことのある日本人。きっとぼくだけじゃないと思うのですが……。

2016年10月号掲載

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第34回 小さい字

今の時代、ぼくも含めて、ものを書く仕事の人はほとんどがコンピューターを使ってると思います。
漢字もワンクリックで変換できるし、脱字なんかがあると文字の下に波線が入ったり、ある意味すごく便利。というか、そんなことを考えることさえないほど、それが普通になってます。
でも、その昔(もうかなり昔のことだけど)、ぼくがまだこの仕事をはじめたばかりのころは原稿は手書き、修正は赤ペンが当たり前でした。
そして、そのとき困ったのが校正です。
校正というのは誤植がないかどうか出版される前に仮刷りをして、原稿をチェックする作業ですが、台湾の出版社の場合、当時はこの仮刷りの初校がもうめちゃくちゃ。日本語の体をなしてないものもあって、「これ、ほんとに自分が書いたの?」と疑いたくなるようなケースさえありました。
で、どうしてそういうふうになるかというと、仮刷りを作るときに活字を組む「打字行(ダーズーハン)」と呼ばれる人たちが、日本語がわからないからです。文字の形だけ見て、それらしいのを組んでいくものだから、とんでもないのが出来上がってきます。
たとえば、ひらがなの「し」とカタカナの「レ」。これが区別がつかないらしく、「わたレ」とかいう言葉が平気で出てくる(「わたし」のことです)。カタカナの「ソ」と「ン」も曲者で、「しストラソ(レストラン)」なんてのにいきなり出くわすと、もう笑うしかありません。
そんな中で、いちばん厄介なのが「つ」でした。
「つ」はほかに似た文字があるわけではないんですが、促音、つまり「っ」のように小さく書くことがあって、この大小がぱっと目にわかりづらく、何回チェックしても必ずひとつふたつは見逃してしまいます。
で、出版されたのを見て、「行つて来ます」なんてのを見つけた日にはひどく落ち込むのです。

小さい字といえば、中国語の中にもあります。
それは「起(チー)」です。
道端なんかでときどき簡易テーブルやビニールシートを広げて、そこには大量のバッグとかシャツとか。店主が大声で「早く買わなきゃなくなるよ」みたいなことを連呼してます。
そしてそのわきにある看板。「100元」とか大きく値段が書いてあるんですが、よく見るとその横には「起」の文字が。
台湾在住の方なら、これだけでもう何のことかおわかりだと思います。
「起」は中国語では「~より」という起点を表す言葉。つまり「100元起」と書いてあれば、それは「100元より」ということで、100元で買えるのは最低金額の商品だけということを意味するのです。
そうとは知らず、おっ、きょうはツイてる、こんな安いのに出くわすなんて。と喜びながら、あれこれ品定めをして、気に入ったものを三つばかり。どうせ300元かそこらなんだから、モノが悪くたって大丈夫。そんなことを思いながら商品を店主に渡して勘定を頼むと、彼はぶっきらぼうに一言、「1500元」。
何っ!
一瞬、何が起こったか理解できない。1個100元のが三つだから300元じゃ……。と思って、もう一度看板を見ると「100元」の横に「起」の文字。これが「100元」の10分の1ぐらいの小ちゃな字で書いてあることに気付くのです。
まあ、こういうのはたいていが1回引っ掛かると、次からは引っ掛からないものなんですが、ぼくの場合、すぐに忘れてしまいます。そして何度か引っ掛かって、やっと値段の横に「起」の文字がないか確認するようになります。
でも、これが道端じゃなくて雑誌やインターネットの広告だったりすると、性懲りもなくまた引っ掛かってしまうのです。
そうやっていつの間にか、値段を見たら「起」を探す。そんな癖がついてしまいました。でも、最近ではおかしなもので、そこに「起」がなかったりすると、今度は何となく寂しい気がしたりもするのです。

2016年11月号掲載

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