カテゴリー: Interview

黑嘉嘉 ヘイ・ジアジア

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強く美しい、天才棋士がさらなる高みへ

最近、台湾で何かと話題に上る囲碁のプロ棋士、黑嘉嘉(ヘイ・ジアジア)。2017年8月に行われた第3回台湾女子囲棋最強戦では3連覇を達成。これまでも国際プロ棋戦で立派な成績を収めてきた黑嘉嘉は、台湾で初めて、三星火災杯世界囲碁マスターズ(※)のワイルドカードに選ばれて出場したプロ棋士でもあります。昨年の12月には芸能界デビューも果たし、新人ながらもCM契約本数はすでに3本。彼女に対する注目度の高さは、芸能界にも新たな波を起こす予感がします。さらなる活躍が期待される彼女にお話を伺いました。

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鹿児島で活躍するシングルマザー黄恭惠さん

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黄恭惠さん

新北市烏来出身・鹿児島市在住
仙巌園 海外営業マネジャー 51歳(1966年3月16日生まれ)

取材・文:吉岡桃太郎

台北の郊外にある温泉郷、烏來(ウーライ)。「台湾原住民」のタイヤル(泰雅)族の集落があり、そこで黄恭惠は生まれ、タイヤル族の文化に触れながら育った。高校を卒業後、大分の日本語学校で日本語を学び、拓殖大学に進学。その後、鹿児島出身の男性と知り合い、結婚して鹿児島に移り住んだ。離婚を経て、異境の地で女手一つで二人の子どもを育て、現在は鹿児島にある仙巌園(せんがんえん)で海外営業マネジャーを務め、鹿児島と台湾の交流にも力を入れている。

タイヤル族と過ごした烏來

「烏來」という地名は台湾原住民の「湯気の出る水」という意味の言葉「wulai」が語源で、日本統治時代に発音が近いこの漢字が当てられた。台北近郊にある温泉としては北投温泉と並んで人気があり、北投が硫黄泉で匂いがあるのに対し、烏來は弱アルカリ性炭酸泉のため無色無臭で、肌に優しいことから「美人湯」の異名を持つ。台北近郊からバスで1時間とかからず、台湾人だけでなく、外国人観光客も訪れる。

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温泉以外にも日本統治時代に木材運搬用に敷設され、後に観光用に転用されたトロッコ列車、烏來瀑布(滝)、その滝を空中で横切るロープウエー、山桜など観光資源も豊富にある。主に台湾北部から中部にかけて居住し、約8万人の人口を有する台湾原住民、タイヤル族の集落があることでも有名だ。黄恭惠の両親はここでタイヤル族の舞踊などが楽しめる劇場を友人と共同経営していたが、火事で全焼。その後、観光客向けの土産物屋を立ち上げたという。

曾祖父が森林や茶畑を開拓するために烏來に移住してきたということで、黄恭惠自身は台湾原住民ではない。だが、幼いころからタイヤル族と共に過ごし、「烏來小姐」(烏來の娘さん)のニックネームで親しまれ、学校の文化祭などではタイヤル族の民族衣装を身にまとい、タイヤル族の舞踊を披露していたという。「タイヤル族の皆さんは目が大きくて、歌が上手で、とっても陽気なんです。私の家族もそれに負けないぐらい陽気なんですよ」

観光業に就くため日本留学

烏來で外国人観光客に接する機会が多かったという黄恭惠は、日本語や英語に興味を示すようになり、学校を卒業したら観光関連の仕事をしたいという漠然とした夢を持つようになる。そして高校卒業時に日本への留学を決意。「環境にも恵まれ、両親のサポートもあったので、日本で人生の新たなスタートを切ることができたんです。両親にはとても感謝しています」その両親は現在、烏來で温泉旅館を経営している。

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黄恭惠が初めて足を踏み入れた日本の地は大分県だ。両親が誘惑の多い都会を嫌い、外国人が少なく勉強に専念できる地方の日本語学校を選んだ結果だといい、そこで一年ほど日本語を学んだ。そして東京の拓殖大学商学部に進学する。「ずっと東京に憧れていたのでうれしかったです」

大学卒業を控えた黄恭惠は、「もう少し日本で暮らしたかったので、両親に許可をもらって日本で就職活動をやりました」運良く台湾進出を計画していた企業が所有するホテルに就職でき、フロント係として第一線で日本の「おもてなし」を学ぶことになる。この時の経験が今でも役に立っているという。そしてホテルに勤めてから3年ほどたったころ、転機が訪れる。鹿児島出身の男性と知り合い、恋に落ちたのだ。

鹿児島へ移住後シングルマザーに

その男性と交際を始め、しばらくたってから両親の反対を押し切って結婚し、ホテルの仕事を辞めて一緒に鹿児島に移住した。二人の子宝に恵まれるが、悩み抜いた末、借金まみれになったという夫と離婚し、異郷の鹿児島で添乗員、翻訳、通訳など幾つもの仕事を掛け持ちし、女手一つで二人の子どもを育ててきた。「子どもたちが人並みの暮らしができるように頑張り、高校にも行かせました」異郷の地で仕事と母親を両立させることは並大抵のことではなかったはずだ。

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現在は仙巌園の海外営業マネジャーとして、自分で着付けした大島紬(つむぎ)の着物を着て台湾人観光客などの案内もしている。「運良く外国人観光客が増え、外国語のスタッフが必要だった仙巌園に委託社員として雇ってもらうことができました」現在は正社員となり、台湾で開催される旅行博などにも足を運び、鹿児島のアピールに力を入れている。また、鹿児島では日台交流の催しなどに積極的に参加し、台湾のアピールも忘れない。

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2015年8月8日に台風13号が台湾に上陸し、黄恭惠の生まれ故郷、烏來に甚大な被害をもたらした際には、会社の許可を得て仙巌園で故郷のために募金を募った。仕事を通して第二の故郷、鹿児島と生まれ故郷、台湾との架け橋として活躍しているのだ。「32年間ずっと留学中という気持ちで過ごしています。鹿児島と台湾の交流に少しでも役に立てればと思います」

(2017年6月号掲載)

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幾米 ジミー・リャオ

唯一無二の絵本作家 惹き込まれる、その作品世界

大人が読む絵本を作りたい    

―元々デザイナーでいらしたのですよね。大病を患われてから絵本を描き始めたとお聞きました。

「以前は広告代理店で、デザインなどのアートディレクターを務めていました。12年ほど勤務したころ、当時の仕事だけでは満足できなくなり自分の作品がほしくなったので、会社を辞めフリーランスになったのですが、翌年に病に倒れました。当時は新聞に挿絵を描いていましたが、闘病のために収入がなくなるどころか、いつまで生きられるかわからないという状況に陥ってしまったのです。ですから、これまでの作品をまとめて本を出さないかとある人から言われた時、すぐに承諾しました。でもそのうち、過去の作品で作った本ではもう満足できないようになり、語りたい物語のアイデアもどんどん出てきたので、腰を据えて創作活動を始めました。それまではイラストを描くだけで絵本の経験はありませんでしたが、大人に見せる絵本を描きたいという明確な意思がありました。なぜなら大人の絵本というジャンルは台湾にはもちろん、おそらく海外でもないでしょうから。それに児童向けの絵本は大きくてページ数も少ないし、大抵書店の片隅に置かれているので、大人はわざわざそこまで行きませんよね。それではきっとそんなに売れないと思ったので(笑)、自分の本を一般の書棚に置いてもらえるよう判型を小さくし、一般的な絵本が32ページのところ100ページにしました。絵本では前例がありません。でも当時はもうすぐ死ぬかもしれないという時でしたから、他のことは何も構わなかったのです。その後、思いがけず賞をいただき、多くの方に私の作品を好きになってもらえました。最初の2冊(『森林裡的秘密』『微笑的魚』)は児童書寄りですが、3冊目の『向左走‧向右走』(君のいる場所)は純粋に大人に向けた絵本です。そこから創作活動の道が始まりました」

―台北ご出身だそうですが、パブリックアートなども展開している宜蘭とはどのようなご縁があるのですか。

「私は宜蘭(台湾北東部)で生まれ台北で育ちました。3、4歳のころ、宜蘭の田舎の祖母の家で過ごした時期もあります。たぶん両親は、祖母が私をとてもかわいがっていたので孫と一緒にいさせてあげようと考えたのでしょう。自分の意思とは関係なく兄弟姉妹と離されて着いた場所は、祖母が住む大きな三合院。ヘビやカモ、サソリがいるばかりか、ネコがネズミの首をかみちぎったり、宮崎駿の作品に出てくるような豚がいたりで、とてもなじめませんでした。動物も、暗くなっていく夕暮れも怖くて、ただひたすら両親はいつ迎えに来てくれるのかと待ち焦がれていました。両親は短期間だったと言いますが、私の印象ではとても長い幼少期でしたね。以前は考えたこともなかったのですが、絵本を描くようになってから、その時体験した悲しみや恐れが意識上に浮上してきたことに気づきました。ですから私の作品には、そうした感情の一端が表れていると思います。明らかに幸福な家庭で育ったのに、なぜこんなに悲しい話ばかり描くのか? それは無理やり家族と離された、捨てられたという幼いころの記憶を埋め合わせているのだと思います」

伝えたい物語を絵本に   

―日本で『星空』(原題:同名)の翻訳版が発売されましたね。

「先ほど日本の編集者から日本版を受け取りました。日本の書店では1月に発売されていますが、奥付の発行日は2月14日のバレンタインデー、愛の日なんですね」

―日本で翻訳されたご著書もちょうど14冊目ですね。

「そうでしたか? 自分では気づきませんでした。ヨーロッパでは翻訳本が出版され続けていますが、日本では十数年前に小学館から出版されて以来、最近までしばらくなかったんです。2年前に『忘記親一下』(幸せのきっぷ)、今年は『星空』と、この2年間でまた日本で自著を出版できることになり、うれしいです。本書のおかげで来月(2月取材当時)日本にも遊びに行けるんですよ(笑)」

―日本にもジミーさんのファンが大勢いるので、皆さん心待ちにしていると思います。

「プライベートでは銀座の街をぶらぶらしたりショッピングを楽しんだりしたことはありますが、これまで著書のために日本に行ったり読者に会ったりしたことはなかったんです。初めての公式訪日は2015年、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」というアートイベントでした。たくさんの読者が私の本を持ってサインを求めてきたので、『なぜ日本に私の読者がこんなにいるんだ?』と驚きました」

―ジミーさんの作品といえば、精緻なイラストと心を打つストーリーが印象的ですが、創作の際はどちらが先に思い浮かぶのですか。

「いつもは絵柄が先に思い浮かびます。その映像に何かを感じたり、背景にある物語を感じ取れたりした時は、ゆっくりとその映像から別の映像につないでいきます。そして大きな映像になった後、その先の物語が続けられるかどうか見るんです。正直(取材のたびに)毎回違うことを言っている気もしますが(笑)、ただ確実に言えるのは、絵本を描く時、それは伝えたい物語があるからです」

―では『星空』を描くことになったきっかけは何ですか。

「一つのニュースがきっかけとなって、その後、他の要素と組み合わせていきました。以前、二人の子どもがバイクに乗って家出をしたというニュースを見たのです。数日後、彼らは見つかりますが、双方の親はお互いを訴えました。親がののしり合う報道に気持ちを引きずられたくなかったので、子どもたちは不愉快な家庭を逃れ、休暇を過ごしに行ったんだと考えました。その夜、バイクで走った道は、子どもたちの目には素晴らしい冒険のように映ったかもしれないし、人生の中で最も美しい階段を登っていたかもしれません。おそらく一生懐かしむような体験になるでしょう。当時、思春期を迎えた12、3歳の私の娘も、もう自分たちの世界を持っていて私には属していないように見えました。これがあの小さかった娘だろうか、と戸惑うほどに。ですから私はこの年齢の子どもたちのために物語を描こうと思ったのです」

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―絵と物語、それぞれどのくらい時間をかけられたのですか。

「絵を描くのが全体の95パーセントです。絵を描いている最中に物語のことも考えていますが、文字はパソコンに入力すればすぐできますからね。でも絵は全て手書きだし、直すこともあるので非常に時間がかかります。『星空』は長年筆が進まなくて、その間別の作品に取り組んでいました。それがある時、散らかったデスクの下から以前描いた下絵が出てきたのです。その時『今年は必ず君を仕上げるよ』とふいに決意し、出来上がった不思議な作品です。ですから、よく見ると各ページの画法に違いがあります。一気に仕上げた作品ではないので、初期に描いたもの、後に描いたものが混在しているのです。着想から完成まで5、6年かかりました。何枚か描いてうまくいかなければ放って、というのが私のスタイルです。2、3カ月やって駄目だとわかればすぐに諦めて他の本にかかります。担当編集者が常に催促するので(笑)、あるものはとてもスムーズに完成します。一番時間がかかったのは『忽遠忽近』(2016)。『向左走‧向右走』(1999)が完成した後にこの物語を思いついたのですが、完成まで20年近くかかりました。ですから『忽遠忽近』の1ページ目には――『向左走‧向右走』に捧げる――と記しました」

―『星空』の最初のページには「この世界とコミュニケーションできない子どもたちへ捧げる」とありますね。

「十代の少年少女たちは、時にコミュニケーションが取りづらくなることがあります。でも彼女たちはたぶん、大人のほうこそ理解できないと思っているのでしょう。コミュニケーションできないか、あるいはそれ自体を望んでいないかもしれません。ですから私はこの物語を彼らに捧げたいのです。台湾や香港、日本でも青少年の自殺は増えています。自分はまったく理解されていないと感じているからではないでしょうか。でも両親とのいざこざや同級生からのいじめで傷ついた時、直面した困難を乗り越えられないと感じた時、一歩引いて顔を挙げ、空を見ればきっと、世界はなんて大きいんだと気づくことができます。星空はこんなにもキラキラしてとてもきれいです。もちろん傷は痛むけれど、その段階を耐えきることができれば、大きいと思っていた問題が些細なことに変わります。引き返せない道には行ってはいけません……ああ、話しているだけで泣けてきます(笑)。とにかく当時はそんなことを考えながら描きました。その後、ちょっと面白いことがありました。『星空』が完成した数年後、台東に講演に行った時のことです。ホテルの最上階に泊まった夜、窓を開けたら星空が見えました。その瞬間、人生で初めて満天の星を見たのは台東だったと唐突に思い出しました。高校2年生の時、台東の運動場に横たわって見た星空が震えるほどに美しかったことを。私は台北で育ったので輝く星空を見たことがなかったのです。翌日の講演でこのことを話した時、思わず涙がこぼれていました。十代のころは誰もが神秘的な時間を持っているものです。星空を見たり、あるいはどこかの道を進んだりする中で、大人に変わっていくのでしょう」

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絵に取り入れた遊び心  

―『星空』に描かれたゴッホの「星月夜」には、どのような意図が込められいるのでしょうか。

「その話は非常に複雑です。創作の時間が長すぎて、その間にいろいろなことがあったので、創作過程のどこかでゴッホの絵が自然に入り込んできたのでしょう。例えば今日道で誰かに会って話をする、あるいは台北アリーナのスクリーンを見て何かを感じれば、それを作品に取り入れ融合させる方法を考えます。ゴッホもそんなケースです。ゴッホを崇拝していた時代を経て、後にオルセー美術館で本物のゴッホの絵を見た時は、感動しすぎて涙を流したものです。主人公の少女は祖父のお葬式に出席していないですよね。絵本には描かれていませんが、彼女と祖父との間には暗黙の約束があったはずです。それは彼女が成長した後、祖父を連れて『星月夜』の実物を見に行くこと。祖父はすでにいないので、その後彼女は一人で絵を見に行きますが、それが祖父に別れを告げる自分なりの方法だったんです」

―ではゴッホ以外に取り入れたマグリットの絵画なども同様の理由ですか。

「そうです。画集を見るのが好きなので、『この壁には絵が必要だな、じゃあこの絵を自分の作品に描こう』という感じで取り入れるんです。もちろん特別な意味がある時もありますが、ストーリーそのものにはあまり関係ありません。どんな画家であれ、自分の作品の中に取り入れるのが好きなので、多くの絵画を作品に仕込んでいますよ。例えばシャガールは『忽遠忽近』や『地下鉄』の作品にも描いています。作家のちょっとした遊び心ですね」

―あまり物語と関連のない部分に動物の絵がよく描かれていますが、何かの比喩なのでしょうか。 

「全ての創作には遊びの要素があり、自分にとってそれは絵の部分です。そうでなければ気持ちが鬱々(うつうつ)としてしまうんですよ。多くの人が、なぜ作品の中によくウサギが出てくるのかと聞きます。実は処女作の『森林裡的秘密』(森のなかの秘密)にウサギが出てきたので、それからは全ての作品のどこかに登場させることにしました(笑)。『星空』にもいますよ。繰り返し登場させますが、物語の進行には影響しません。ただ描く時はもちろん動物の造形や性格は考慮します。例えばウサギがいるこのページに犬を描いたら変です。犬は人と密接で忠実なので、その場面の情緒はあまり曖昧になり得ませんから。一方で面白味やファンタジー的な要素もあります。絵本はそもそも自由奔放でいいはずですから、動物を大きくしたり小さくしたりするのも魔法の一種です。実際の大小の比率と違うものを見た時の感覚は普通とは違うでしょう? その感覚が別の世界にいざなってくれるのに役立つかもしれません」

―対称的な構図も印象的です。

「私は規律、秩序を重んじる作家です。作品に制約を設けるのが好きで、その範囲の中で創造します。『向左走‧向右走』や『忽遠忽近』は、左右の間で起こる物語で、ある種のリズム、メロディーといった音楽性があります。『向左走‧向右走』がなぜロングセラーになれたのか、それは左右をモチーフにした物語が二度と出ない、超えることができない域までこだわれたからではないでしょうか。『星空』は私の作品の中では少し特別で、そのような対称性、重複性はありません。その点で成熟度がとても高いといえると思います。(他にもたくさんの作品があるのに)日本で出版されたと思ったら、こんなに成熟度が高い作品がぱっと出るなんて少し悔しい気もしますね(笑)」

垣間見える担当編集者との絆

―『星空』は映画化もされましたね。ジミーさん自ら林書宇(トム・リン)監督にオファーされたとお聞きました。

「映画化した前作の2本『ターンレフト・ターンライト』『地下鉄』はどちらも香港の監督が撮りました。香港、中国だけでなく日本にも私の作品を映画にしたいと言ってくれる人がいたのに、なぜか台湾人はいなかったんです。当時『星空』を書き終えた時、映画にとても向いていると思いました。そこですぐにマネージメント会社に、台湾の誰か若い監督で映画を撮ろうと提案したのです。実は担当編集者が林書宇監督の大ファンで、最初の長編映画『九降風』(九月に降る風)は映画館だけで3回も見に行っているんですよ。それに映画評もたくさん書いたものだから監督も彼のことを知っていて、それで私も含めて会うことになったのです。実際、『九降風』は非常に個性があり撮影も素晴らしかったですから、『星空』を携えて監督に会いに行きました。監督が喜んで引き受けてくれたので映画化できました。実は最近、監督から最新作の『忽遠忽近』を気に入ったと連絡をもらったんですよ」

―映画化や舞台化、関連グッズを含めて、作品の世界観を損ねることなくいい形で展開されていますが、著作が別の形態になる際、どの程度関与されるのですか。

「一切関与しません(笑)。まず時間がありません。私は全ての時間を自分の作品に使います。それから、それらはもう別の創作物だからです。全てのジャンルに専門家がいますから、彼らだって私の意見はあまり聞かないでしょう(笑)。もし映画だったら撮影現場に行くことはあるかもしれませんが、それは誰が主役か、どのように撮影するのかといった純粋な好奇心です。撮影の過程に干渉するつもりはないので、たとえ脚本を見せてくれたとしても、一般の読者の気持ちで読みます」

―普段は何をしてリラックスされますか。

「フェイスブックで他の人が何を食べた、どこへ行ったという投稿を見たり、自分でもたまには映画を見に行ったり旅行に行ったり、娘とおしゃべりしたりしています。基本的には仕事人間なので、他の人たちと同様に毎日規則正しく仕事に励んでいます。以前はもっと長かったのですが、年を取って体力がなくなり、今は一日5時間ぐらい。後は担当編集者へのミッドナイトコールですね(笑)」


Profile
1958年、宜蘭生まれ。広告代理店勤務を経て98年に創作活動を開始。同年『森林裡的秘密』(森のなかの秘密/PHP研究所)で絵本作家としてデビュー。台湾でベストセラーとなった『向左走‧向右走』(君のいる場所/小学館)、『地下鐵』(地下鉄)が映画化、ミュージカル化されるなどアジアでも広く人気を博す。これまでに日本をはじめ、アメリカ、フランス、ドイツ、スペイン、ギリシャ、韓国などで50作品以上の翻訳版が出版されるなど、海外での評価も高い。最新作は『忽遠忽近』(原題/2016)、17年に『星空』(トゥーヴァージンズ)の日本翻訳本が刊行された。

コーディネート:黄碧君/写真提供:大塊文化/取材・構成:二瓶里美(編集部)


(2017年6月号掲載)

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信(SHIN)

台北アリーナで5年ぶりライブ開催!

台湾コンサートの殿堂台北アリーナで、5月20日にライブを開催する信。
2002年にロックバンド信樂團のボーカルとしてデビューした信は、厚みのあるハイトーンボイスが魅力的で、メリハリある高い歌唱力を持った歌手です。「一了百了」、「天高地厚」、「One Night In 北京」、「死了都要愛」などの曲で台湾、中国大陸から大きな人気を博し、ヒットを飛ばし続けました。
その後、2007年3月にバンドから脱退、ソロのファーストアルバム『我就是我』をリリース。バンド時代に劣らず、高音域から低音域までを自在に操るボーカルを披露し、LA、南米、欧州の海外でもツアーを開催するなど、ずっと第一線で活躍しています。今回のインタービューでは最新アルバム、5/20に控えた台北アリーナライブについてお話を伺いました。

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―昨年の年末にリリースしたアルバム『大爺門』はほぼ全曲をご自身で作詞作曲されたそうですね、製作の過程はどうでしたか。

「順調でした。学生みたいな宿題やレポートの締め切りとは違って、創作はとても個人的なことですから締め切りを設けていません。詰まったらいったん止めて、気持ちが上向いたらまたやる、という感じでとても自由でした。でも作っている時は、商売人になるか芸術家になるかという点について考えました。流行性を考慮せず自分の気持ちや考えばかりを書いていたら聞いてくれる人はいるのか、自己満足になるだけじゃないかなと。しかし後になってそれは考えすぎだと結論を出しました。自分はあくまでポップミュージックの歌手ですし、ポップミュージックの中に芸術的な価値を加えればいいのだと思いました。流行の要素がありつつ深みがある、『大爺門』はそのような作品です」

―製作において一番大切にしているいることは何ですか。

「もちろん歌をちゃんと表現することです。のどのケアは、よく眠り辛い食べ物やお酒を控えること。以前はロサンゼルスなど空気がいいところで録音していましたが、今回はスケジュールの関係で台湾でレコーディングしました。でもやはり、湿気がひどいと鼻は詰まりますね」
――アルバムの中で特に気に入っている曲はありますか。
「『搖滾區』(アリーナ席)です。タイトルだけ見ると、にぎやかで楽しい歌だという印象を与えるかもしれませんが、実は違います。あえて人生で一番困難な状態に陥った時、谷底にいる状態を例えました。私の歌は、どれも希望に満ちた明るい感じの曲ではないです。なぜなら現実はそうじゃないから。暗い部屋の中で窓を割るとそこから日差しが差し込むように、生活は苦しいけれど、いつかは良くなるということを表現したいんです」

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―他に印象深いフレーズはありますか。

「『掌紋算命』という曲の“臉靠過來 用掌紋算命 五道血痕就能夠清醒(顔を出して、手相占い[手のひら]ではっきりさせてあげる)”。これは実は平手打ちをして正気に戻らせるという意味です。たとえ、何でも占いに頼りたい人でも、実は自分の心の中に答えがあると思うので、たたいて正気に戻すという曲です」
ライブは25歳のテンションで

―間もなく、5年ぶりに台北アリーナでコンサートをされますね。

「(台湾の)歌手だったら、みんな台北アリーナでコンサートを開くのを目指すでしょうね。私は小さいころからそんな大きな舞台で歌うのを夢見ていました。錢櫃(カラオケチェーン店)に行っては、個室ではなく、多くの人がいるホールで歌っていました。観客がいることがとてもうれしかったし、自分はすごいなとも思いましたね(笑)。もちろん今もすごいですよ。以前はいつまで歌い続けられるだろうかと思ったこともありましたが、最近歌の番組に出たら『全然大丈夫~自分はまだすごいじゃん!』と思えました。前はできなかったことができるようになり、まだこれまでの自分を越えることができます。年齢はあまり関係ないようで体力もあります。ですから今回のコンサートは25歳のテンションでやっていきたいと思います。選曲は難しい曲ほど最初に持ってきて、どれだけ自分がすごいのかということを見せつけて絶対に皆を驚かせます(笑)」

―2012年エイベックスのイベント「a-nation」では日本にも来られましたね。

「覚えていますよ。会場はSHIBUYA-AXで、周辺でグッズなども販売していました。印象に残ったのは、日本の方が手を振る時、全員の動きがそろっていたことです。コンサートに行ったら、ワイルドでちょっと混乱ぎみになるのが普通だと思っていたのですが、これも文化の違いですね。面白かったです」

―過去の作品でターニングポイント、節目となったものはありますか。

「ないです。すべての作品は私にとって同じ重さです。ある曲がヒットして一億人が聴いたとしても、歌は歌であることに変わりはないし、昔から他人の評価で特に舞い上がったり、落ち込んだりはしませんから。例えばあなたたち(記者)に誰にインタービューしたことがターニングポイントと聞いたら答えられますか。すべての作品が日々やるべきことを果たした成果だから、一つの作品をターニングポイントや節目としてしまうのは大げさな気がします」

―そうかもしれませんね。では普段はどんな音楽を聞かれますか。

「好きなジャンルは広いです。ジャズ、クラシック、メタル、電子音楽など全部好きです。iTunesにはマックスになるほど曲が入っています。最近聞いた中で一番印象に残ったのは中国の歌手の郭頂の歌ですね。とても良かったのに何でヒットしないんだろうかと不思議なくらい。(シンガー・ソングライターの)小宇に聞かせたら、彼もいいと言っていました。昔CDを買う基準は表紙に顔が映ってないものでしたね。それが真剣に音楽を作っている証明だと思うから。私のは仕方がないですよ、かっこいいから載せないといけないでしょう(笑)」

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―休みには何をされていますか。

「主に海外旅行に行きます。仕事でもよく海外に行くのですが、長い休みがもらえたらやっぱり海外に行きますね。ヨーロッパの国はほぼ全部、そのほかアメリカ、南米、中米、キューバ、バハマ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイなど60カ国ほど行きましたね。それぞれに違う文化と景色があってとても面白いです。両親を連れて1回だけツアーで旅行に行ったのですが、みんなが私と写真を撮りたがるから、まるで自分が移動観光スポットになった気分でしたよ」

―旅の達人ですね。台湾の楽しみ方を読者の皆さんにも教えてもらえますか。

「『な~るほど・ザ・台湾』が紹介したスポットとグルメを見ればいいんですよ(笑)。台北ならMRTが便利だから、MRTに乗って行き当たりばったりで行けばいいんじゃないかな。私は例えばロンドンに行ったら地下鉄に乗って、すべての駅で降りてみて周辺をぶらぶら回るんです。ロンドンを周遊できて満喫できますよ」

―美食家だということもお聞きましたが、台湾でお薦めの食べ物はありますか。

「小籠包よりも牛肉麺! 『牛爸爸』、『史記正宗牛肉麵』、『史大華精緻麵食』、西門町の『牛店』などの店が美味しいと思います」

(2017年5月号掲載)


プロフィール
1971年生まれ。身長191センチ。2002年、ロックバンド信樂團でデビュー。05年ソロのカバーアルバム『S pecial thanks to—感謝自選輯』をリリース。07年、バンドから脱退、『我就是我』(07)、『集楽星球』(08)、『趁我』(09)、『黎明之前』(11)、『我記得』(12)、『反正我信了』(15)などをリリース。最新アルバムは2016年12月に発売した『大爺門』。


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信『GentleMonster』ツアー
時間:2017/5/20 19:30
場所:台北アリーナ(台北市松山區南京東路四段2號)
主催:華研國際

 

取材・文:張引真(編集部)/撮影:彭世杰/取材協力:メーカーズシャツ鎌倉 台北店

 

 

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素顔の台湾人 Vol.31 自らのメディアを通して、愛する野球を伝えたい

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雷明正さん

台北市・内湖生まれ
台湾プロ野球・ラミゴモンキーズ二軍通訳。29歳(1987年6月25日生まれ)

取材・文:高橋真紀

野球一筋20数年。年間5回は日本を訪れ、プロから学生まであらゆる野球を観戦する強者である。インターネット世代の野球マニアは自らメディアを立ち上げ、大きな夢を抱きながら日本野球の情報を日々発信している。

台湾の親日ぶりは、6年前の震災で多くの人が知るところとなった。最近では日本への興味もより深くなっている。日本好きの若者に出会うと、日本人よりも知っていることが多く、驚かされる。例えば温泉。例えば雑誌。日本の最新情報を台湾人から教わることも少なくない。

今回紹介する雷明正もその一人で、彼の場合はかなりの日本野球マニアだ。取材の待ち合わせ場所に現れた雷明正が手にしているトートバッグには、オリックスバファローズのロゴ。取り出した携帯電話には使い古した阪神タイガースのカバーがかかっている。

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「阪神ファンで関西が好きなので、京セラドーム(オリックスの本拠地)にもよく行くんです」

現在はラミゴモンキーズ二軍通訳として、コーチを務める元西武ライオンズの杉山賢人氏の日本語通訳を務めている。

「通訳として屏東(台湾南部)に派遣されたんですが、トレーナーさんを除けばスタッフは二人しかいないので、なんでもやっています。選手からキャッチボールの相手になってくれと言われることもあります。完全に肉体労働ですよ(笑)」

屏東は2月に気温が摂氏30度を記録した。キャンプ中から強い日差しにさらされていたそうだ。確かにその顔は真っ黒に焼けていた。

小学生のころに出合った野球

台北市内湖生まれ。地名の由来にもなっている大きな湖の近くの内湖高校を出た後、南オーストラリア大学のイギリス文学部を卒業した。今は日本語を得意としているが、先にマスターしたのは英語で、アメリカ出身選手とのコミュニケーションも問題なくこなしている。オーストラリアで出会った友達が日本人だったことから、日本語にも興味を持ち始めた。

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野球との出合いは、小学生の時。台湾プロ野球が開幕して台湾の野球熱が高まっていたころで、兄弟エレファンツの大ファンだった叔父に連れられて、よく野球を見に行った。今の台北アリーナがある場所に台北棒球場という球場があり、台湾プロ野球の試合が開催されていたのだ。特に記憶に残っているのは1999年9月20日の三商タイガースと和信ホエールズの試合。観客が101人しかいなかったことも印象的だが、球場の上を鳥がぐるぐると飛び回っていたので、変な胸騒ぎがしていて、帰宅すると台中大地震が起きたのだそうだ。

その他の試合も、まるで昨日見てきたように話してくれる。記憶力の良さを思わず褒めると、雷明正は照れくさそうに言った。

「試合の開催日や観客数、スコアも全部覚えています。野球のデータに関しては、昔からいつのまにか頭に入ってしまうんです」

日本のプロ野球と出合ったのは、1998年のことだ。前年に台湾プロ野球では八百長疑惑が起き、混乱のなか雷明正の気持ちも離れてしまっていたところだった。当時NHKで放送される日本プロ野球連盟(NPB)の試合は台湾でも放送されていた。そこで初めて目にしたのが、横浜ベイスターズ対阪神タイガースの優勝決定戦。横浜ベイスターズの38年ぶりリーグ優勝がかかった試合だった。優勝した横浜ではなく、阪神ファンになったところに自分の性格がよく表れているそうで、「弱いチームほど応援したくなる」と笑う。大学時代YouTubeが普及し始めたころで、毎日のように日本の野球ニュースを見て日本語力を磨いた。

ちょうどその翌年から阪神タイガースの監督に就任した野村克也氏の「ID野球」(データを重視する野球)に多大な影響を受け、著作「野村ノート」を約2年間かけて読破した。「日本語で最後まで読んだ最初の本です。それ以降野村さんの本はすべて読みました」。日本語で情報を吸収できるようになってからは、興味に拍車がかかっていく。

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サイト「野球News」を立ち上げ

大学を卒業し、1年間の兵役を終えた2010年、一度は日本に行ってみたいと日本の企業に就職し、2年ほど働いた。2011年末に台湾に戻り、企業の広報を務めた後、2013年にメジャーリーグ(MLB)の日本語版Facebookのライターとなり、初めて仕事で野球と関わることができた。2015年にはウェブメディア三立国際新聞の記者となり、入ってすぐデスクに昇格する。基本的には国際ニュースを扱う部署だが、野球に関わるネタがあれば、自ら積極的に現場に足を運んできた。

MLBに携わっていた2014年ごろ、仕事とは別に雷明正は自らのメディアを立ち上げた。「野球News」というYouTubeのチャンネルと、Facebookページを作り、日本野球を愛する仲間8人と運営しているのだ。YouTubeでは毎週NPBに関するニュースをキャスター役の仲間が届ける。Facebookでは最新情報を記事にまとめて随時アップしている。内容を見てみると、選手の移籍情報や、球団幹部の人事まで伝えるという徹底ぶりだ。

2014年に元中日ドラゴンズの台湾出身選手・大豊泰昭氏が51歳の若さでこの世を去ったことは、台湾でも大きく報道された。NPBを愛する雷にとって、日本で頑張る台湾人選手の存在はやはり特別だ。雷は大豊氏が開いた中華料理店に足繁く通い、信頼関係を築いてきた。引退後の大豊氏がどうしているのか、店はどこにあるのか、野球News上で詳細な記事を書いた。亡くなる4カ月前にはYouTubeにメッセージ動画を掲載。野球Newsは大豊氏の肉声を届けた最後のメディアとなった。「僕は諦めません。また会いましょう」と中国語で力強く語りかける1分弱の動画は、現在までに2万6000回以上再生されている。

球団の通訳スタッフとして働きながら、自ら趣味の域をはるかに超えたメディアを運営する日々。野球漬けですね、という言葉に相好を崩した雷明正だったが、今後の夢について聞くと表情をぐっと引き締めた。

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「野球Newsは自分のすべてなんです。これを発展させていくことが一番の目標。いつかはNPBの試合が中継できるほどのサイトに成長させて、仲間たちにも給料を払えるメディアになりたいと思っています」

(2017年5月号掲載)

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素顔の台湾人 Vol.30 台湾の「日本語族」を支える若手の一人杜青春さん

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杜青春さん

台北市出身・在住
銀行員、台湾川柳会代表。54歳(1962年5月24日生まれ)

取材・文:吉岡桃太郎

柳、俳句、短歌といった日本の伝統的な詩歌を趣味とする人たちが台湾にはいる。結社も幾つかあり、毎月句会や歌会が開かれているが、会員の大半が戦前、日本統治下の台湾で日本の中等教育を受け、今でも日本語を嗜む年配者だ。会員の高齢化と後継者不在が顕著になってきているが、そんな中で40代という若さで(当時)「台湾川柳会」の代表に就任したのが杜青春だ。ほかの句会や歌会にも顔を出し、台湾の「日本語族」を支える若手の一人になっている。

父親の転勤をきっかけに日本留学

台北101などの超高層ビルが立ち並び、台北マンハッタンの異名を持つ台北市の信義エリア。「子どものころ、僕の住んでいる4階建てのアパートが一番高い建物だったんですが、今じゃ一番低い建物になっちゃいましたよ」という杜青春は、50年前には田畑が広がるのどかな町だったというその信義エリアと目と鼻の先で生まれ育った。祖父や両親の口から日本のことをいろいろ耳にし、日本語の基礎は両親から学んだ。

小学校、中学校は勉強の毎日で、高校は名門の建國高級中學に入学。これといった趣味もなく、毎日勉学に励んでいた杜青春にとって、自転車通学がちょっとした息抜きになっていたようだ。「台北の街並みも随分と変わりましたよ」

そして高校を卒業するころに転機が訪れる。父親が日本に転勤することになったのだ。「父に『ちょっと生活環境を変えてみないか?』と言われて、一緒に日本に行くことにしたんです。最初は右も左もわかりませんでした」まずは語学学校で本格的に日本語を学び、そして見事、早稲田大学の商学部に合格。杜青春はそれまで耳にするだけだった「日本」を実際に肌で感じるようになる。大学卒業後は同大学の大学院商学研究科に進み、修士号を取得。日本で約10年の月日を過ごした。

がり症で入った日本語サークル

台湾に帰国した杜青春は経済部(経済産業省に相当)の招聘研究員として経済のレポートを作成する日々を送るが、しばらくして知人の紹介で日系の銀行に転職することになる。銀行ではエコノミストとしてのレポートの作成だけでなく、行員や顧客にプレゼンもしなくてはならず、しかも顧客は日系企業が多いため、日本語も使いこなせなければならない。「10年間日本にいたから日本語は大丈夫という自負はあったんですが、僕って上がり症で、日本語で経済についてスピーチするという場面ではてんでダメでしたね」

なんとか自分の上がり症を克服したい、もっとうまく日本語を話せるようになりたい、何かいい手はないかと模索している時に杜青春が見つけたのが、話し方や大勢の前で話すことなどの上達を目的としたスピーチサークル「太平洋国際日本語演説会」だ。早速、例会に顔を出し入会することにする。「日本語族の先輩方に日本語を鍛え直されましたよ。怪しい敬語とかも直してもらったり。人前での話し方なんかも学んだし、上がり症もほぼ克服できました」同時期に同様の目的で「関西詩吟文化協会台北支部」にも入会し、20年近く活動を続けている。

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日本語が仕事のためから趣味に

仕事のために始めた「日本語」のスピーチと詩吟だったが、ある出会いをきっかけに杜青春に再び転機が訪れる。仕事での疲れを癒やすため、台湾を代表する温泉の一つ「北投温泉」にある公衆温泉「瀧乃湯」で温泉に浸かった後、日本の文庫本を片手にくつろいでいたら、杜青春を日本人と勘違いして日本語族の男性が声をかけてきたのだ。「その時に台湾川柳会に来ないかと誘われたんです。ちょうどサラ川(サラリーマン川柳)に興味があったんで、句会に顔を出してみたんです。面白いなと思いました」これまで仕事一筋でこれといった趣味がなかったということもあり、早速、入会して川柳を作るようになったという。

当時の同会会長(故人)が体調不良を理由に引退したがっていたこともあり、会員の中で若さがひときわ目立った杜青春に白羽の矢が立ち、わずか入会1年で会員による投票で代表に選出された。「(前任の)会長が『日本在住の会員で一度も会ったことがない人もいる。会いに行きたい』とおっしゃっていたのがずっと気になっていたんです」北は北海道から南は沖縄までいる同会日本在住会員の全員に会うべく、年に数度時間を作ってポケットマネーで日本に「通っている」杜青春。日本各地の川柳会とも交流を深め、2014年春には日本で『近くて近い台湾と日本-日台交流川柳句集』(新葉館出版)が出版された。

 

台湾川柳会での活動を通じてほかの句会や歌会にも知り合いができ、杜青春は今「台北俳句会」「台湾歌壇」「コスモス短歌会」「春燈俳句台北句会」などにも顔を出し、うち幾つかの結社では会報作成のサポートなどもしている。「なんだか趣味が多くなりすぎてしまって、プライベートな時間のほとんどを趣味に費やしています。こんなすてきな趣味ができたことを大切に思っています」かつて「仕事」のために関わっていた「日本語」が、いつの間にか「趣味」へと変わっていたのである。

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若手として日本語族からの期待も高い杜青春。「若手といっても僕はもう50代です。もっと若い台湾人に川柳や俳句、短歌の醍醐味を知ってもらいたいんです。まずは台湾川柳会の平均年齢をグンと下げたいですね」と鼻息が荒い。これからも台湾の日本語族を支える若手の一人として、ますます活躍していくことだろう。

(2017年4月号掲載)

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家家(ジアジア)

ますますパワーアップ!
ソウルフルな歌声で聴く者を魅了する


台湾のミュージックシーンでは、多くの“原住民(ユエンジューミン)”出身の歌手が活躍しています。今回ご紹介する家家(ジアジア)もその一人。家家こと紀家盈は、日本にも固定ファンを持つ紀曉君(サミンガ)の妹で、ブヌン族の父とプユマ族の母を持つ歌手です。原住民歌謡の色が強いサミンガとは一線を画し、現代的なポップスやバラードを得意とする家家の、繊細で温かく心の奥に触れるようなソウルフルな歌声は姉に勝るとも劣らず、その歌唱力は誰もが認めるところです。昨年12月にリリースしたサードアルバム『還是想念』は、セカンドに引き続きMayday(五月天)の瑪莎(Masa)が総合プロデュースを担当。シンガーソングライターの韋礼安(ウィリアム・ウェイ)やSuming舒米恩、日本人音楽プロデューサー亀田誠治も参加し、これまで以上に注目度が高い作品。今回のインタビューではニューアルバムの製作や、ブヌン民族の文化について聞きました。


―3年ぶりにニューアルバムをリリースされましたね。

「『還是想念』はたくさんの素晴らしい作曲者、作詞者、プロデューサーがいたからこそ出来上がった作品です。テーマはタイトルの『還是想念』(まだ想っている)そのもので、過去の自分、あるいは恋愛相手、亡き家族など、想う対象は一曲ごとに違います。アルバムの全体的な雰囲気は控えめです。今回は選曲から製作まで、前の2枚より時間的な余裕があったのでじっくり取り組めました。私の一番の役目は歌うことですから、それに専念し、他のことはプロデューサーの瑪莎に託せたので気持ちは楽でした(笑)。選曲からレコーディングをするまで、どんなアルバムになるのだろうとずっとわくわくしていました」

―五月天の瑪莎がアルバムのプロデューサーを務めるのは今回で2度目ですね。

「瑪莎は本当に思いやりがある人です。私が新しい環境や知らないスタッフに慣れないタイプだということを知っているので、なじみの録音技師に依頼するなど安心できる環境を作ってくれました。もちろん歌の感情表現や歌い方については意見が違うこともあり、その時は話し合ってお互い納得がいくやり方を模索しました」

―レコーディングの時、何か印象深いエピソードはありましたか。

「HUSHが作った『還是想念』は録音に2日かかりました。1日目は声もテクニカルな面もよかったのですが、瑪莎は情緒が何かしっくりこないと言ってちょっと納得していなかったんですね。それで、その日の夜にHUSHにレコーディングのことを話したら、HUSHはこの歌を書いたきっかけが、卒業した学校に行ったある時、学校の隅に昔自分が書いた落書きがまだはっきりと残っているのを見つけて、昔の自分がとても懐かしくなったことだと教えてくれました。翌日、その話を気持ちでも感じた上でもう一度歌ってみると全然違う雰囲気になりました。声のコンディションは完璧ではありませんでしたが、最終的にこの日のバージョンが採用されました。些細な感情の機微が含まれているので、この点をぜひ聞いてもらいたいです」

―「看透」は歌い方がとてもパワフルでテンポも重くとても印象的な曲ですね。

「この曲はアルバムの中で浮いていますよね。このような曲は私にとっても初めてです。作詞作曲とプロデューサーを手掛けた韋禮安(ウィリアム・ウェイ)は、本当に才能のある人だと思います。彼はとても親しみやすい人なので、初めて一緒に仕事をしてもストレスを感じなかったのですが、この曲に対してはいろいろな表現を求められました。時に甘い声で、時に皮肉な表現で、恋愛感情で傷つき、ヒステリーで狂っている感じの女性を演じるようにと。会ったばかりの人にそういう一面をさらすことはちょっと怖くて自信がなかったのですが、彼が『私なら絶対できる』と確信していて、新しいものを引き出してくれました。この曲は本当に疲れました(笑)」

急逝した母と故郷にささげる歌


―ほかに特に思い入れがある歌はありますか。

「『家家歌』は私の故郷と亡くなった母にささげたい歌です。MVの撮影は故郷の南王部落(台東)の『年祭』を撮りました。曲はアミ族の古いメロディーを取り入れたので、民族の文化へのリスペクトを含め、アミ族の歌手の以莉•高露と舒米恩(スミン)に歌のリードを依頼しました。スミンは中国語の歌詞も書いてくれました。音楽人の友達みんなが私をサポートしてくれたことに本当に感謝しています」

―歌手として一番影響受けたのは何ですか。紀曉君(サミンガ)さんをはじめ、ご家族には音楽関係者が多いですよね。

「家族の影響は大きいですね。姉が歌手ですから、若いころは姉のライブなどで、よくバックコーラスを担当しました。ですから私はコーラス、ハーモニーが得意です(笑)。家族はたくさん音楽の栄養をくれましたね。でもずっと姉の後ろに立っていたので、自分がデビューした時はちょっと自信がなかったですね。でもだんだん慣れてきて、自分独自の魅力があると自信が付きました。歌い方なら、昔から洋楽が好きで、マライア・キャリーやホイットニー・ヒューストンの歌をよく聞いていたので、デビューして間もないころは彼女たちをモデルに練習しました」

―ブヌン族の『年祭』のことを詳しく教えてください。

「故郷の南王部落は毎年『年祭』があります。元々は、昔冬の間に食べ物がなくならないよう、年末の12月28日ぐらいになると部落の男たちは山に狩猟に行っていました。そして1年の最後の日12月31日の朝、他のみんなは集会所に集まって踊って彼らを出迎えるのです。『家家歌』のMVは今シーズンの年祭です。夜になると未婚の男子は伝統的な衣装を着て、すべての家を回って新年を祝い、1日めくりカレンダーをめくります。昔は結婚適齢期の男女が知り合う機会でもありました。また1月1日の朝には、部落の年長者が前の年に喪に服した家庭を訪ね、『去年の悪いことはもうすべて過ぎ去った』と“除喪”(悪いこと、悲しいことを取り除く)の儀式を行います。以前は年越しライブで行けないことも多かったのですが、昨年は母が亡くなったこともあり、久しぶりに年祭に参加しました」


Profile
原住民歌手・紀曉君(サミンガ)を姉に、陳建年をおじに持つ音楽一族出身。ソウルフルな歌声に定評があり、2006年に男女デュオ・昊恩家家として歌手デビュー。2011年Mayday(五月天)の3D映画『五月天3DNA追夢』やMaydayのライブ「五月天諾亞方舟」にゲスト出演し話題を呼んだ。2012年アルバム『忘不記』でソロデビューを果たす。同アルバムに収録された大ヒットしたドラマ『蘭陵王』の挿入歌「命運」は中国でも注目を集めた。セカンドアルバムは『為你的寂寞唱歌』(13年)、最新作は『為你的寂寞唱歌』(16年)。

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(2017年3月号掲載)

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八三夭 831 バーサンヤオ

クールなサウンドに時代の声を織り込む

取材・文:二瓶里美(編集部)/取材協力・写真提供:滾石國際音樂

台湾の国民的ロックバンド五月天(Mayday)の阿信(ASHIN)もその才能を高く評価する、新世代のロックバンド八三夭 831。バンドの結成が8月31日であることからその名が付いた。毎年8月31日前後に「生日趴」(誕生パーティー)と称するライブを開催しているが、昨年Legacy Taipeiで開いた生日趴のチケットは即完売。台湾最大の音楽アワード・金曲奬でのパフォーマンスをきっかけに、東京国際ミュージック・マーケット(以下TIMM)で日本初ライブも果たした。今、最も活躍が期待される話題のバンド・八三夭に最新アルバムについて聞く。

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左から、阿電(アーディエン) Drums、霸天(バーティエン) Bass、阿璞(アープ―) Vocals、小橘(シアオジュー)Leader/Keyboard、劉逼(リウビー)Guitar

台湾の若者が直面している問題がテーマ

―最新アルバム『生存指南』について簡単にご紹介いただけますか。

阿璞(アープ―)「これまでもずっと、その時代ごとの世の中の思いを反映しようと努力してきました。このアルバムのテーマは、台湾と中国の若者の世代交代。現代の若者が直面する問題はひと世代上の人たちとは違います。高学歴低所得、少子化、高齢化社会、貧富の格差など、背負わなければならない負担は重くなるばかりですが、それが若い人たちが直面している問題です。昔は仕事を頑張りさえすれば家を買えたけれど、現代の若者はまず仕事が見つからない。仕事が見つかったとしても(高くて)家を買えない。小さなころから必死に勉強して優秀な成績で学校を卒業しても、良い仕事が見つかる保証さえないんです。上の世代の人たちも経験のない問題に、この時代の若者は立ち向かわなければなりません。ですから、この時代の若い人が生きていくための教科書、生存ガイドのようなものになればとこのアルバムを作りました。条文のように長い曲名もありますが、一つの曲ごとがそれぞれ解説や手引っぽくなっている感じが皆さんに伝わればいいなと思います」
小橘(シアオジュー)「1曲目は『生存指南-使用說明』で、2曲目が『飢餓遊戲』(ハンガーゲーム)。最初に導入部があって、ハンガーゲームという映画感を感じてもらえるよう、この2曲は前後に並べ曲間の切れ目もありません。同様に最後の曲『世界上最危險的東西就是希望』も“世界で最も強大な力は希望”という感じを作り出したくて、その前には『黎明來臨前的夜晚總是最黑暗』(夜明け前の夜が最も暗い)という、歌詞がないインストゥルメンタルを配置しました。BGMのようなものですね」
阿璞「『黎明來臨前的夜晚總是最黑暗』は演奏のバックにテレビのニュースの音を流しました。注意深く聞けばネガティブなニュースだとわかります。例えば食品問題や教育改革の失敗、少子化など。生活が情報化の時代の中にあって毎日膨大な情報を注ぎ込まれ、外部のものに精神状態を悪化させられる。そういう雰囲気を作りたかったんです」
霸天(バーティエン)「音楽の面ではさらにはっきり“バンド”っぽさを出しました」

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―制作の過程について具体的に教えてください。

阿璞「実は多彩な要素を出したくて、少し前のアルバムでは電子音楽の要素を取り入れていましたが、今回は初めて小さなスタジオを作りそこで全曲収録しました。バンドの本来の音への回帰を中心に、編曲面では元々の編曲の考え方を捨て、できる限りシンプルで純粋な音作りをするという制約を設けて、以前用いたシンセサイザーのような電子楽器ではなく、違う方法で表現することに挑戦しました」
劉逼(リウビー)「今回は幸運にも台湾の文化部から音楽制作の補助金が出たので、弦楽器の大家・弦一徹さんやミックスエンジニアのCLA(※)たちとグローバルなコラボもできました」
阿璞「弦一徹さんは、これまでに椎名林檎さんやORANGE RANGEをはじめ、日本の有名な歌手と何度もコラボしている方です。日本のメジャーな歌手はほとんどコラボしたことがあるんじゃないかな」
劉逼「今回、アルバム制作中にちょうどTIMMのライブに出演する機会があったので、銀座にある彼のスタジオに行って現場で話し合いました」
霸天「厳格な方だと思っていたので、弦一徹さんにお会いする時は緊張しました。でも話してみるとユーモアがあってフレンドリーな方なので、お会いできてとてもうれしかった。それに先生は音楽に関してたくさんアイデアがあり、打ち合わせの過程ではその曲を聞いてどんなイメージが思い浮かぶか話してくれました」
小橘「弦楽器で1小節多めに弾いて、『君たちの曲にはここは必要ないとは思うけど弾いてみたよ』と選択肢をくださったこともありました」
霸天「考え方が僕たちとすごく合うんですよね。コラボできてとても心地よくてうれしかったです。ただ僕たちの日本語が下手という以外は何も問題なかったです(笑)」
阿電(アーディエン)「(日本語が話せる)劉逼がいてよかったよ」

―「乾啦 乾啦」は任賢齊(リッチ-・レン)と五月天の阿信がコーラスされていますね。

阿璞「作り終えた時、これは友達の歌だって感じたんです。僕たち他にほぼ友達はいないんだけど、阿信さんはこれまでずっとお世話になっている先輩でもあり友達でもある方なので、お願いしました。彼もこの曲をとても気に入ってくれて、さらに「この曲は任賢齊さんが歌うのが合う」と。任賢齊さんはアジアの歌王ですが、僕と小橘が以前彼のアルバムで曲を作ったこともあり、阿信さんがこの縁を取り持ってくれました。彼ら二人はロックレコードの大先輩でもあるので、コラボできて本当にうれしかったです」
阿電「僕の一番好きな曲。仲のいい友達全員と分かち合えるので、特に“乾啦乾啦” (飲み干そう、乾杯)というフレーズが気に入っています。日本と同じように、台湾もプレッシャーやストレスが多い社会。だから学校や会社で気分が浮かない時、そんな晩は友達を誘って一緒に “乾啦乾啦”と1杯。とてもいいリラックス法でしょう」

―このアルバムの中で印象深いフレーズを教えていだけますか。

小橘「一番ぐっときたのは『老媽最常說的十句話』の“直到她來看我們演唱會的那一刻才知老媽她始終懂得”です。コンサートに来てくれた母を見るまで、自分たちの気持ちを理解していないと思っていた――という、この歌のターニングポイントになっているフレーズは、自分が体験したことでもあるからです。昔バンドをやりたいと言った時、両親は狂ったように反対して、早く仕事を探せと叱りました。でもコンサートに来てくれた両親を見た時、自分を心配してくれていたんだなとやっと理解して、すごく感動しました」
阿璞「すべて感慨深いですけど……。曲目の順番を決める時、すごく時間をかけて『世界上最危險的東西就是希望』を最後に配置することにしました。最も抽象的で歌詞もあまりストレートではないけれど、想像すればその意味がわかります。最後は“在這個世界上最危險的東西不是痛苦絕望,而是我懷抱希望大聲的唱”(この世界で最も強大な力は苦痛と絶望ではなく、大きな声で主張する希望を持つことだ)という言葉で締めくくりますが、これこそアルバムのコンセプトであり僕たちのスピリットです」
霸天「僕が好きなのは『我不想改變世界 我只想不被世界改變』というタイトルです。成長の過程で社会は僕たちをこの世界に合うように変えようとするけれど、最初にほしかったものを諦めずに初志貫徹する、自己を貫き通すことは可能だと期待させてくれるからです」
劉逼「『飢餓遊戲』は社会の幅広い階層について触れていて、サビのフレーズは“不知為何 我要拼命 拼搏?”(どうして一必死に頑張るのか)です。実際たくさんの人が強制的に前に向かわされているけれど、どうしてずっと走り続けるのか本当はわからない。そんな今の若い人たちの心の声に満ちているので、とてもセンスがあります」

※CLA:アメリカの著名なミックスエンジニア、クリス・ロード・アルジ。ボンジョビ、マドンナ、ティナ・ターナーらの楽曲を手掛け、グラミー賞受賞でも知られる。

今年の目標は1万人規模のコンサート

―バンドを結成して14年、高校時代からずっと一緒に同じ道を歩いてこられたのですよね。

小橘「17歳の時に知り会ってから、ほぼ毎日会ってる。相当うざいですよ (笑)」
霸天「僕たちは元々同級生で仲の良い友達、今は仕事のパートナーです。時には言い合いもするけれど、お互いを思いやり、メンバーの意見に耳を傾けようとずっとやってきたのが、良かったのだと思います」
小橘「いい言葉があるんです。“一緒に仕事をする時も楽しい。それは真の友”」
阿璞「一緒に仕事をしてこんなに長くなると相棒に近い感じです。友達になるのは簡単だけど、仕事となると利益や仕事量の調整、気持ちもからんできます。お互いを思いやり、それぞれの個性を理解してコミュニケーションする――今までそれを維持してこられたのは、得難く尊いことだと思います」
阿電「小橘とは知り会って10数年になりますが、阿璞と霸天、劉逼とはバンドに入ってから知り会いました。最初はすでに10数年も一緒にやっている息ぴったりの4人の中にどうやって入ればいいのかと思いましたが、実際は割とすぐになじめたと思います。肩肘を張らず余計なことに首を突っ込まなければそれでいいんですよ。彼ら4人の暗黙の了解に寄り添うように」
霸天「メンバーは、みんな阿電に尊敬の意を示していますよ」
小橘「阿電が前にいたバンドはとてもキャリアがある先輩だし、彼は誠実に人に接しますから」
阿電「両極端なんですよ。確かに自分は付き合いやすい面がある一方、爆発しやすい地雷もたくさん持っています。空腹になるとすぐ怒る(笑)」
霸天「だから打ち合わせの時は食べ物をいっぱい用意して阿電を空腹にさせないようにするんです。そうすればイライラしませんから。相手が何を嫌がるのかを知っておく、これが長続きするための僕たちの付き合い方です」

―1回聞くだけで印象に残るメロディー作りが秀逸ですが、創作の際その点を特に工夫されているのですか。

阿璞「八三夭の音楽はずっと面白いと思える方向に向いていて、みんながすらすらと口から出るような歌だったらとても楽しい。でも全力でそうしているわけではなく自然にでしょうか。僕の脳内からそれをhook(釣り上げ)してhook(夢中に)させられたら面白い。例えばヒット曲『東區東區』は、“東區(ドンチュー)”という音がドラムの“ドンッードンッー”という音に似ていると感じたことから自然とできました。それに僕たちと同じ世代の人にとって東区はトレンドの聖地で、日本でいえば渋谷や新宿みたいな場所です。少し上の世代が若い時なら西門町ですが、僕たちは最初にバンドの練習を始めたのも東区ですし、街をぶらついたり夜遊びに行ったりした、同世代共通の記憶があるエリアなんです」

―今後の目標を教えてください。

阿璞「今年は1万人規模のコンサートをしたいです。まだ台湾でその規模のライブをしたことがないので、それが僕たちの夢ですね。多くのファンも期待してくれているので、今年中に実現させたいです。後は去年初めてTIMMに参加しましたが、日本はアジアンロックの聖地のため、日本の音楽祭にもっと参加したいです」
小橘「サマーソニックとフジロックフェスティバルにまだ行ったことがないので、この二つのロックの殿堂にはすごく行きたいですね」
霸天「短期的な目標はまず台湾で1万人規模のコンサートを開くこと。中期的には日本で1万人規模のコンサートを開くこと。長期的には世界で1万人のコンサートを開くことです」


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『生存指南』
2016年12月リリース。電子楽器を使用せず、本来の「音」への原点回帰を目指した渾身の最新アルバム。印象的な旋律に、若い世代へのメッセージを込めた歌詞が載った新世代の台湾ロック。「飢餓遊戲」「翻白眼」「廢話語錄」「我不想改變世界 我只想不被世界改變」「老媽最常說的十句話」「世界上最危險的東西就是希望」など全12曲収録。


profile
2003年に結成。メンバーは、リーダーでキーボードの小橘、ボーカルの阿璞、ベースの霸天、ギターの劉逼、ドラムの阿電の5人。阿電は初代ドラム担当の子瑜が抜けた後、13年に加入した。2008年に『拯救世界』でアルバムデビュー、2nd『最後的8/31』(12)、3rd『大逃殺』(14)、最新作は『生存指南』(16)。張惠妹、S.H.E、王力宏ら中華圏を代表するアーティストへの楽曲提供やコラボも多数。16年、音楽アワード金曲奬のほか、東京国際ミュージック・マーケット(TIMM)で初の日本ライブ出演も果たした。作詞、作曲の大半を阿璞が担当。


(2017年2月号掲載)

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素顔の台湾人 Vol.29 苦難を乗り越え商才を発揮、早期リタイア後はスローライフ

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洪麗蓉さん

雲林生まれ、台北市在住
不動産貸付業。59歳(1957年8月1日生まれ)

取材・文:高橋真紀

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洪麗蓉は台北市民権東路の公園沿いにある閑静な3LDKのマンションで、駐在員や留学生と共に暮らしている。友人に勧められたハーブティーを飲みながら、穏やかに話し始めた彼女の人生は、その笑顔からは想像もできないほど波乱に満ちたものだった。夫を亡くし、女手ひとつで娘を育てながら、困難に立ち向かってきた彼女は60歳を迎える今、これまでを振り返り、助けてくれた人たちへの感謝でいっぱいだという。強くしなやかに生き抜いてきた台湾人女性の半生を、じっくりと聞かせてもらった。

公園に面した閑静な自宅を訪ねると、洪麗蓉が笑顔で迎えてくれた。お気に入りのハーブティーを淹れながら、おいしいナツメやドライフルーツについて話しているのを聞いていると、なんだか実家に帰ってきたようだ。この気安い雰囲気も、彼女の人柄によるものなのだろう。

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台湾中部の雲林生まれ。実家は人気のパン屋さんで、苦しい時代の中では恵まれて育った方だと語る。中学生まで雲林で過ごし、専科学校(技術人材を要請する学校)に進学するために台北にやってきて、すでに45年。現在は一人娘も結婚し、自宅の2部屋を間貸しして、悠々自適な暮らしを楽しんでいる。ただし穏やかな今の暮らしは、数々の困難を乗り越えた先につかんだものだ。

最初の大きな転機は24歳の時に訪れた。専科学校を卒業してから2年ほど働き、寿退社して翌年には長女を出産。幸せの絶頂と思われたその時、夫を亡くしてしまう。

「子どもを一人で育てていくことになったのだけれど、とても受け入れられなかった。何もかも変わってしまって、自分の人生が真っ暗になってしまったように感じました」

ショックのあまり心がすっかり沈み込み、何をする気力も起きなくなってしまった。食べるのも面倒で、友人の励ましもまったく耳に入らない。鬱々と人生を悲観する日々が3年も続いた。ところが3年間苦しみ抜いた後、突然目が覚めるように力が湧いてきたという。

「みんな楽しく笑って過ごしているのに、自分だけどうしてこんなに苦しまなければいけないのだろう。楽しい1日と苦しい1日、同じ1日なら楽しく過ごした方がいいじゃないか。そんな風にある日突然思って、苦しみに立ち向かおうと決めたんです」

雲林の両親も全面的に洪麗蓉をバックアップしてくれた。父親が出資してくれたお金で喫茶店を開業。場所は台北師範大学にほど近いところだった。娘の世話は母親が手伝ってくれて、なんとか喫茶店も軌道に乗ってきた。2度目の大きな転機となる事件はそのころに起きたという。

投資に大失敗、活路を求めて日本へ

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「喫茶店を開いたころの台湾は、空前の株ブームだったんですが、投資に失敗してしまって」。後にブラックマンデーと呼ばれる世界的な株価の大暴落が彼女の人生をも狂わせた。喫茶店を畳んで途方に暮れていると、同じように投資に失敗した友人から日本で商売をしないかと持ちかけられた。借金してなんとか東京行きの費用を作り出し、台湾の食品や服飾、雑貨などを日本在住の台湾人に販売することで、細々と生計を立てていた。

3年ほど日本に滞在した後、稼いだお金を元手に台湾に戻ってパン屋を開業。このお店は4、5年続けるのだが、この期間に東京で親しくなったシンガポール人女性の勧めでシンガポールを訪れ、すっかり気に入って娘を留学させている。ホームステイ先を見つけてシンガポールの中学校に進学させ、自分は台湾でお店を守っていた。パン屋の経営は順調だったが、これも長くは続かなかった。家庭のトラブルで経営を続けることが難しくなってしまったのだ。

店を友達に譲った洪麗蓉は、行く当てもなく一人娘のいるシンガポールへ移り住むことにした。やがてシンガポールで暮らすうちに、台湾人留学生のために何かできることはないかと思い始め、宿舎を開くことになる。

「台湾人留学生が住む場所を提供しようと思ったんです。マンション1棟を借り、30部屋を貸し出しました。部屋はすべて埋まって、すごく好評だったんですよ」

娘がアメリカの大学に進学したためアメリカに移住し、テキサスとカリフォルニアに滞在したものの、車の運転ができない洪麗蓉には移動もままならず、生活の不便さと退屈さに耐えかねて、1年ほどで台湾に戻ってきた。また1からのスタートである。

代理販売の会社を設立し、52歳で退職

台湾では日本時代に代理販売をしていた経験を生かして、デパートで日本の商品を売る仕事を見つけた。だが半年ほど働くうちに、自分でも起業できるのではないかと考えるようになった。彼女がすごいのは、実際に自分の会社を作ってしまったということだ。営業もすべて自分でこなした、全国のデパートにプレゼンして販売させてもらっていたという。この時40歳を過ぎていたが、バイタリティーには自信があった。「ただの主婦でも、やればできるものなんですよ。私が特別なんじゃなくて、みんな潜在能力を持っているはずなんです」。

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一人娘がアメリカで出会った台湾人男性と結婚して、子育てが本当の意味でひと段落ついた時、「定年退職」と決めて会社も畳んだ。52歳の時だった。経営者として得た利益で民権東路にある今の自宅を購入。1人暮らしに3LDKは広すぎるので、残りの2部屋をシンガポール時代のように、留学生に貸し出そうと考えた。現在は駐在員として働いているマレーシア人女性と、地方から台北に出てきた台湾人学生が住んでおり、時には一緒にお茶したり、ご飯を食べたりしながら暮らしている。

普段の食事はほとんど自炊で、時には同居する二人にもふるまう。掃除や植木の世話も欠かさない。散歩して友達と会い、おしゃべりするのが日課。アメリカや日本など海外にも友達がたくさんいるので、友人を訪ねる海外旅行も楽しみの一つだという。

夫の死や投資の失敗を乗り越え、4カ国を渡り歩いて今の生活にたどり着いた彼女に、残りの人生をどう過ごしたいかと尋ねてみた。洪麗蓉は穏やかに静やかにこう答えてくれた。

「人生の中でいろいろな人に助けられてきて、すごく感謝している。私には恩人がたくさんいるんです。残りの人生では、今度は私が誰かの恩人になれたらいいですね」

(2017年3月号掲載)

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インタビュー

著名人インタビュー

今をときめく歌手・俳優や、スポーツ選手、文化人など各界の著名人への単独インタビューをお届けします。

●日台ビジネスパーソン インタビュー

台湾でビジネス展開する企業を率いる、日本・台湾のリーダーたちのインタビュー。事業内容から台湾での経営戦略、ビジネス理念などに迫ります。

素顔の台湾人(形形色色台灣人)

異なる年代、職業、出身地の台湾人インタビュー。それぞれのライフスタイル、仕事、価値観など、さまざまな台湾人をご紹介します。