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第38回 となりにいます

湾では日本語を勉強する人が少なくありません。
仕事とかで特に必要というわけでもないんだけど、ただ何となく興味があるので。そんな理由から、結構みんな日本語を勉強しています。
つい数日前、MRTに乗ったときの話です。
若い男女の二人連れ。座席に座っておもむろに日本語検定試験の問題集を広げてました。で、彼のほういわく、
「これ、どうしてこの答えなの?」
「うーん。わかんないけど、何かおかしいよね」
どうやら問題の解答に納得してないようでした。
その様子を、ぼくはすぐとなりの席から眺めてました。でも、ぼくの位置から見えるのはカッコの中に適当な言葉を入れる四択の問題があるということだけ。それが精いっぱいで、問題の内容までは見えません。
― どんな問題? 何がわかんないの?
ぼくの好奇心は徐々に頭をもたげ、さらにそれは「何故聞いてこない? 答えがここにあるじゃないか」と進化し、最後には「えっ、日本語の問題? どうしたの?」なんて今偶然気づいたような素振りで何気なくこちらから声をかけてみようかと思ったり。
でも、このときふと頭をよぎったのが、変なおじさんがいきなり声をかけてきたら、彼ら、絶対にびっくりするに決まってるということ。きっとお節介だと思うだろうということ(実際にそうなんだけど)。とにかく間違っても感謝されることはないと思ったのです。
というわけで、結局声は掛けず。彼らはその後も、ああでもない、こうでもないと討論を続けたのでした。


んなふうに、すぐとなりにいて、こっちはわかってるのにあっちはわかってないというケース。たまにあります。
そして、そんなケースではたいていがイライラしてストレスが溜まるんですが、この前、こんなことがありました。
忠孝東路のしゃれたイタリアンレストラン。ぼくのすぐとなりの席には日本人の女性がふたり。年齢は見たところ30代の後半から40代の前半、きれいに着飾ってランチといった感じでした。
で、彼女たち、大きな声で笑いながら楽しそうな会話。完全に弾けてる状態です。
まあ、最近の台北は街中で日本人に会うことは日常茶飯事なので、特に気にすることもなくメニューを見ていたのですが、いつの間にかそれどころではなくなりました。
聞こえてくる彼女たちの会話。ここでは書けないような面白い話が赤裸々に飛び交っていたからです(内容はご想像にお任せします)。日本だったら公の場でこんなことは話さないと思うんですが、おそらく周りはだれも日本語はわからないだろうという安心感からか、ついつい無防備になっていたようです。
ぼくの耳はどんどん大きくなります。視線はずっとメニューに落ちたまま、でも、何も見ていません。
ところが、しばらくそんなふうに盗み聞きをしていると、突然ぼくの携帯電話が鳴りました。日本人の友達からです。
「もしもし」
ぼくが一言そういった途端、周囲の空気が凍りました。
それまで弾けてたとなりの女性の会話が一瞬で静まり、その後はふたりとも声を発しません。
パキーン。
まるでディズニー映画『アナと雪の女王』で一瞬にして風景が氷の世界に変わったときのようでした。


れ以来、ぼくは特に気を付けるようになりました。
MRTやバスの中でも、レストランでも、街を歩いているときでも、台湾では日本語だからだれもわからないというのは勝手な思い込みだということを。
「何やってんだ。このバカ」。心の中で思っても、それはゴクリと呑み込みます。人間修行のよい機会だと思いながら……。

(2017年3月号掲載)

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心から愛すべき台湾の朋友たち 第36回 味覚の話

年明けましておめでとうございます。

日本では新しい年のはじまり、希望に胸膨らませてる方も多いのではと思いながら、ふと振り返ってみると台湾は忘年会シーズンの真っただ中。当分は飲んだり食べたりの日々が続きます。
さて、この忘年会ですが、料理の中で必ずといってよいほどお目に掛かる定番の一品があります。
刈包(グアバオ)です。

刈包というのは脂身のしっかりついた豚肉の醤油煮を平らっぺったいマントウではさんで食べるものです。よく「台湾のハンバーガー」なんていわれたりするんですが、おもしろいのはその味つけで、醤油煮のしょっぱさの上に何故か甘いピーナッツ粉、これがバサっとかかってます。
で、この味、しょっぱさと甘さのハーモニーといえば聞こえがいいのですが、ぼくからすると、お互いの主張が強すぎてハーモニーとは程遠いもの。どっちかというと不協和音としか思えないのです。
ところが台湾人の友達に聞くと、これが「おいしい!」と、一点の迷いもない自信に満ちた答えが返ってきます。
「口の中でふたつの味が一体となって深みのある味になるんだよね」
これ、まさに、しょっぱさと甘さのハーモニーそのものです。
でも、おかしなもので、ぼくが食べると、どうしてもそんなふうにはならない。やっぱり口の中でしょっぱいのと甘いのが戦ってる……。
ょっぱいのと甘いのといえば、台湾にはこの手の組み合わせはほかにも少なくありません。
たとえば結婚祝いに配る喜餅(シービン)。
黄金色の皮の中身は小豆餡というのが一番よくあるパターンなんですが、中には小豆の中に肉鬆(ロウソン)(肉でんぶ)がぎっしり詰まってるのもあります。
で、これを一口食べたときの感想はというと、
「……」
そう、すぐに感想が出てこないというのが感想です。
これは果たしてしょっぱいというのか、それとも甘いというのか、認識できない。かといって、前にどこかで食べたことがあるかもしれないと、記憶の引き出しを引っ掻き回しても思い出せない(これが、しょっぱいと甘いが完全に混じり合って一体となっていれば「甘辛い」として違和感なく受け入れられるのですが……)。
ナツメ餡の中に塩漬け卵黄の入った月餅(ユエビン)なんかもそうです。
めちゃくちゃ甘いナツメ餡としょっぱい卵黄の組み合わせ。そもそもこのふたつをいっしょに食べるという発想がどこから出て来るのか。卵黄が中秋の名月を表してる、といえば何となく納得できないこともありませんが、それでもこの味の組み合わせ、やっぱりぼくには理解不可能です。
て、塩漬け卵黄といえば、最近おもしろい話を聞きました。
連日大量の観光客が押し寄せるお土産店で、看板商品のパイナップルケーキに塩漬け卵入りが登場したというのです。
パイナップルの甘酸っぱさと塩漬け卵のしょっぱさ。作った側としては絶妙のハーモニーが市場で受け入れられると思ったのでしょうが、果たしてお客さんの購入状況はというと、これが日本人観光客はほとんど見向きもしなかったとのこと。彼らが買うのは普通の味、つまり塩漬け卵なしの甘いだけのものでした。
やっぱりそうだろ。そんなの作るから売れないんだよ。
それを聞いたとき、ぼくは自分の味覚の正しさを改めて確認するとともに、何となくうれしくなったのでした。
ところがよく聞くと、この塩漬け卵入りのパイナップルケーキ、日本人観光客には総スカンでしたが、中国人観光客には大好評で、飛ぶように売れているとのこと。
で、こうなると、何が何だかまたわからない。もしかしたら日本人にはわからない深い味わいがあるのかも……。
そんなことを思いながら、この味の魅力についてもう一度考えてみようと思うのでした。

(2017年1月号掲載)

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第37回 騒音で思うこと

暦の大みそか、夜中の12時が近づくと聞こえてくる爆竹の音。はじめはどこか遠慮がちにババババッと単発音が聞こえたかと思うと、それに釣られるかのようにほかのところでもババババッ。で、ちょうど12時に差し掛かったその瞬間、堰を切ったかのように、

ババババッ、ババババッ。
パパパパッ、ババババッ。
ヒュー。ヒュー(これは衝天炮といって、かなりうるさい)。
ババババッ、パパパパッ。

これがしばらくの間続きます。
ぼくなんてはじめてこれを聞いたときには、どっかから爆撃機が大群でやって来て、市内一掃爆撃がはじまったのかと思ったほど。とにかく耳をつんざく迫力満点の大爆音です。

でも、一部ではこの爆竹の音、真夜中にうるさい、空気汚染になる、近所迷惑だ……。などということで禁止を求める声も聞かれます。現に中国なんかでは、かなりの都市で爆竹禁止令や制限令が出されてたり(ちなみに台北については学校や医療機関、文教エリアの半径50 メートル内を除けば、旧暦大みそかは爆竹OKらしいです)。

まあ、大みそかの爆竹、たしかにうるさくないとはいいません。ただ、ぼくとしては年に一回のことだし、何といってもおめでたいことでもあるんで、心情的には「いいんじゃないかな」なんて思ったりするんですが……。


 うるさいってことでいうなら、ふと思い出したんですが、爆竹なんかよりずっと近所迷惑なのが昔よくあった街中での葬式です。

その辺の道端とかにビニールシートで囲んだ張り出しテントのような葬儀場を作って、そこで読経。さらには、チャルメラを吹いたり銅鑼や太鼓を鳴らしたり。と、これだけでも騒音公害と呼ぶには十分なんですが、中にはこの儀式を決まった日の決まった時間に行わなきゃいけないっていう習慣があるらしく、それが時には深夜の12 時だったり早朝の4 時だったり。とに
かく何でこんな時間にやるんだと思う時間にいきなりはじまることもありました。

そして、一旦これがはじまると、うるさくてテレビの音は聞こえないし、寝てたとしたら絶対に起こされる。一度なんかは我慢できなくなって、警察に通報しようとしたこともあります。でも、当時のルームメイトの台湾人が頼むからそんなことしないでくれって。で、どうしてだと聞くと「だって葬式なんだから、仕方ないよ」とのこと。

まあ、言い分はわからないでもありませんが、それでもこっちにとっては我慢できる範囲を大きく超えた暴力的な騒音。こんなのが延々と続いた日にはたまったもんじゃない。そのときは本気でそんなふうに思ったものです。


も、こんな台湾伝統のうるさい葬式もいつの間にかほとんど見なくなりました。これについては拡声器を使っちゃいけないとか、音量が一定の基準を超えてはいけないとか、時間制限があるとか、道路使用に関する申請を出さなきゃいけないとか、いろんな規則ができたからかもしれません。

まあ、これも台北が近代都市になっていく過程のひとつ。一種の時代の流れといってしまえばそれまでなんでしょう。社会全体で個人の権利が重視されるようになって、これによってみんなの生活が快適になっていく。たしかにいいことなのかもしれません。でも、そのせいで古い伝統はひとつずつ消えていく。やっぱり寂しいものがあります。そういえばここ数年、ぼくが台湾に来たばかりのころに比べると、大みそかの晩の爆竹の音も心なしか謙虚になったような気がします。

(2017年2月号掲載)

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第35回 引っ越しの話

最近引っ越しすることになりました。

振り返ってみると、引っ越しはなんと11年ぶりのことです。

日本とくらべて台湾は安く引っ越しができるので、ぼくなんか来たばかりのころは、数か月ごとに引っ越していました。が、それが長くいるにつれて物も家族も増えて、そう簡単には引っ越しできないというか、できればしたくないと思うように。
ところが、今回は大家さんがぼくの住んでるところを、息子夫婦に住まわせたいということで、ぼくらは出ていくことを余儀なくされたのです。
さて、久しぶりに家探しをしてみて、まず驚いたのが家賃です。
実はぼくが住んでるところ、入居時に賃貸契約というものを交わすには交わしたんですが、契約満了になっても契約の継続というのをしていません。だから、11年間入居したときの家賃でずっと来ていました。で、その家賃がぼくの中ではひとつの基準になっていたんですが、とんでもない時代錯誤でした。
この11年間に台北の家賃は驚くほど上がっていたのです。
ぼくが住んでるところよりも、条件的にどう見てもランクは下で、しかも丁寧に使ってないもんだからボロボロな家が、信じられないような強気な家賃。
大家さんいわく、
「最近は物価も税金も上がってるし、しょうがないね」
うーん、でも、給料は上がってないんだし……。思わず突っ込みたくなりましたが、悲しいかな、これはたぶん聞いてもらえない。
ところで、以前から思ってたんですが、台北の不動産価格って、みんな買ったときから下がることはないと確信してるようです。家は古くなっても、価格は上がって当たり前。どうもそれが台湾社会の一般常識のような気がしてなりません。
ほかにも気づいたことがあります。
貸し出す家について、どの大家さんも例外なく、いいことしかいいません。
まあ、少しでもいい条件で貸したいという気持ちはわかるので、それを否定しようとは思いませんが、それにしても都合の悪いことは一切いわないというか、それ自体がまったくなくなってる。その見事な「消えぶり」は感心してしまうほどです。
たとえば、築40年以上、エレベーターもなくて都市ガスも来てない。小さいのにくわえて間取りも悪く、窓の外はとなりの家がすぐそこまで迫ってるような家。それでも大家さんは「ここは交通が便利だから」の一点張り。
さらに、都合が悪いことを突っ込まれたときも、「えっ、こう来たか」と思うような切り返し。
「この部屋、クーラーは付けてもらえるんですか」と聞くと、「ここはホントに涼しいんだよ。だから大丈夫」とか、外は一面ハトの糞害にやられてるのを見て、「こりゃひどいね」というと、「ハトは平和の鳥だから、縁起がいいかも」とか。
とにかく「ホントにそうなの?」というような答えが平然と返ってくるのです。
でも、こういう大家さんが悪い人かといえば、決してそんなことはありません。
彼らがこんなふうにいうのも、おそらく、交渉の段階でひとつでもよくないことがあると、とことんそこを突いて家賃を値切る人がいるからじゃないでしょうか。だからそれに対する防波線。そんな感じだと思います。
というのも、交渉ではああでもないこうでもないといってる大家さんですが、その合間に世間話をすると、急に親切な一面が垣間見えたりすることもあるからです。そして中には、家賃を少し下げてくれるなんてケースも。で、一転して「いい人じゃん」と思ったり。
ただ、せっかく下げてくれた家賃も、ぼくの予算とはかなりの開きが……。
結局、大家さんの好意に申し訳ないと思いながらも契約には至らず。台北の物価の高さを恨みながら家探しは続くのです。
この原稿が掲載となるころには無事、新居が見つかってることを願ってます。

(2016年12月号掲載)

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第33回 日本人でしょ?

うちの近くの公園です。

ロータリーのように丸くなった広場があって、そこでは毎日何十人ものお年寄りが大音量のスピーカーから流れる掛け声にあわせて運動してるんですが、ある日、散歩がてらにそこを通ると、まったく風景が変わっていました。
集まってる人たちがいつの間にか若返っていたんです。手にはスマホ、目はそれに釘づけ。みんながみんなそんな感じなんで、傍から見ていてちょっと異様な光景でした。
でも、すぐにわかりました。
ここのところ話題になってるやつ、ポケモンGOです。
ぼくもニュースなんかで、ポケモンGOが世界的に盛り上がってることは知ってたし、それが台湾ではじまったことも知ってたんですが、聞きしに勝る盛況ぶり。で、いったい何がそんなに彼らを熱狂させるのか。ぼくの好奇心が一気に頭を擡(もた)げてきたのでした。
ちなみに、そのときぼくはポケモンGOの遊び方を知りませんでした。それどころかポケモンもほとんど知らない。っていうか、知ってるのはピカチュウだけ。
で、このことを台湾人の友達に話すと、こんな説明が。
「みんなポケモンを探してるんだよ。見つけたら、ボールを投げて、うまく命中したら捕まえられるから」
「ボールを投げる?」
「だから、アニメの中で投げてるでしょ」
「そうなの?」
ところが、ぼくのこの答え、彼女は想定してなかったらしく、「えっ、知らないの? 日本人でしょ?」と、何か物珍しいものを見るような目つきで、ぼくのことを見たのでした。

「日本人でしょ?」というのは、ときどきいわれることがあります。
台湾の人からすると、日本人ならこれは知ってて当たり前と思うことを、ぼくがたまたま知らなかったりしたときです。
でも、知ってて当たり前という基準についてはかなり無茶苦茶なこともあります。
たとえば、日本のどこか地方の小さな町へ旅行に行って帰って来たばかりの台湾人の友達から「あそこはいいよね」なんていわれたとき。「それどこ?」なんて返事すると、「えっ、知らないの? 日本人でしょ?」が飛んで来る。
ほかにも公務員の給料はいくらかとか、東京の市街地の不動産価格はどのぐらいとか。
もちろん、ぼくは公務員をやったこともないし、都内に不動産なんて持ってないので、そんなこと知るわけもないんですが(こういうのって、ぼくじゃなくてもほとんどの日本人が知らないと思うんですが……)、そんなことはあまり関係ないらしく、日本人だったら知ってるはずだと思う人もいるようです。
そして、ぼくにとって、この現象がもっとも顕著に現れるのが日本のドラマやアニメの話をしたときです。
普段から日本のドラマやアニメを見ないぼくは、彼らの話にほとんどついて行けません。一方、彼らのほうはというと、それが三度の飯より好きだったり。そんな彼らからすると、ぼくの反応はもどかしいというか、いらいらが募るんでしょう。というわけで、たびたびぼくは日本人であることを疑われてしまうのです。
さて、前述のようなケースで「日本人でしょう?」といわれて、ぼくはどう思うかというと、これがそんなに気にはなりません。「オレはドラマは見ないんだ。アニメも見ない」と、ある意味開き直ることができるからです。
ところが、そうはいかないケースもあります。
ぼくから見ても、日本人なら常識的に知ってるだろうと思われることを聞かれた場合です。
東京の人口ってどのぐらいとか、消費税って何パーセントとか、今年平成何年とか……。
大まかなところはわかるんだけど、普段身近に接してないから自信がない。こんなときは何ともいえない劣等感を感じながら、適当なことも言えないし、「うーん、それは……」とか何とかいってお茶を濁すのです。
台湾に長く住んでて、こんな経験をしたことのある日本人。きっとぼくだけじゃないと思うのですが……。

2016年10月号掲載

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