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心から愛すべき台湾の朋友たち 第36回 味覚の話

年明けましておめでとうございます。

日本では新しい年のはじまり、希望に胸膨らませてる方も多いのではと思いながら、ふと振り返ってみると台湾は忘年会シーズンの真っただ中。当分は飲んだり食べたりの日々が続きます。
さて、この忘年会ですが、料理の中で必ずといってよいほどお目に掛かる定番の一品があります。
刈包(グアバオ)です。

刈包というのは脂身のしっかりついた豚肉の醤油煮を平らっぺったいマントウではさんで食べるものです。よく「台湾のハンバーガー」なんていわれたりするんですが、おもしろいのはその味つけで、醤油煮のしょっぱさの上に何故か甘いピーナッツ粉、これがバサっとかかってます。
で、この味、しょっぱさと甘さのハーモニーといえば聞こえがいいのですが、ぼくからすると、お互いの主張が強すぎてハーモニーとは程遠いもの。どっちかというと不協和音としか思えないのです。
ところが台湾人の友達に聞くと、これが「おいしい!」と、一点の迷いもない自信に満ちた答えが返ってきます。
「口の中でふたつの味が一体となって深みのある味になるんだよね」
これ、まさに、しょっぱさと甘さのハーモニーそのものです。
でも、おかしなもので、ぼくが食べると、どうしてもそんなふうにはならない。やっぱり口の中でしょっぱいのと甘いのが戦ってる……。
ょっぱいのと甘いのといえば、台湾にはこの手の組み合わせはほかにも少なくありません。
たとえば結婚祝いに配る喜餅(シービン)。
黄金色の皮の中身は小豆餡というのが一番よくあるパターンなんですが、中には小豆の中に肉鬆(ロウソン)(肉でんぶ)がぎっしり詰まってるのもあります。
で、これを一口食べたときの感想はというと、
「……」
そう、すぐに感想が出てこないというのが感想です。
これは果たしてしょっぱいというのか、それとも甘いというのか、認識できない。かといって、前にどこかで食べたことがあるかもしれないと、記憶の引き出しを引っ掻き回しても思い出せない(これが、しょっぱいと甘いが完全に混じり合って一体となっていれば「甘辛い」として違和感なく受け入れられるのですが……)。
ナツメ餡の中に塩漬け卵黄の入った月餅(ユエビン)なんかもそうです。
めちゃくちゃ甘いナツメ餡としょっぱい卵黄の組み合わせ。そもそもこのふたつをいっしょに食べるという発想がどこから出て来るのか。卵黄が中秋の名月を表してる、といえば何となく納得できないこともありませんが、それでもこの味の組み合わせ、やっぱりぼくには理解不可能です。
て、塩漬け卵黄といえば、最近おもしろい話を聞きました。
連日大量の観光客が押し寄せるお土産店で、看板商品のパイナップルケーキに塩漬け卵入りが登場したというのです。
パイナップルの甘酸っぱさと塩漬け卵のしょっぱさ。作った側としては絶妙のハーモニーが市場で受け入れられると思ったのでしょうが、果たしてお客さんの購入状況はというと、これが日本人観光客はほとんど見向きもしなかったとのこと。彼らが買うのは普通の味、つまり塩漬け卵なしの甘いだけのものでした。
やっぱりそうだろ。そんなの作るから売れないんだよ。
それを聞いたとき、ぼくは自分の味覚の正しさを改めて確認するとともに、何となくうれしくなったのでした。
ところがよく聞くと、この塩漬け卵入りのパイナップルケーキ、日本人観光客には総スカンでしたが、中国人観光客には大好評で、飛ぶように売れているとのこと。
で、こうなると、何が何だかまたわからない。もしかしたら日本人にはわからない深い味わいがあるのかも……。
そんなことを思いながら、この味の魅力についてもう一度考えてみようと思うのでした。

(2017年1月号掲載)

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第35回 引っ越しの話

最近引っ越しすることになりました。

振り返ってみると、引っ越しはなんと11年ぶりのことです。

日本とくらべて台湾は安く引っ越しができるので、ぼくなんか来たばかりのころは、数か月ごとに引っ越していました。が、それが長くいるにつれて物も家族も増えて、そう簡単には引っ越しできないというか、できればしたくないと思うように。
ところが、今回は大家さんがぼくの住んでるところを、息子夫婦に住まわせたいということで、ぼくらは出ていくことを余儀なくされたのです。
さて、久しぶりに家探しをしてみて、まず驚いたのが家賃です。
実はぼくが住んでるところ、入居時に賃貸契約というものを交わすには交わしたんですが、契約満了になっても契約の継続というのをしていません。だから、11年間入居したときの家賃でずっと来ていました。で、その家賃がぼくの中ではひとつの基準になっていたんですが、とんでもない時代錯誤でした。
この11年間に台北の家賃は驚くほど上がっていたのです。
ぼくが住んでるところよりも、条件的にどう見てもランクは下で、しかも丁寧に使ってないもんだからボロボロな家が、信じられないような強気な家賃。
大家さんいわく、
「最近は物価も税金も上がってるし、しょうがないね」
うーん、でも、給料は上がってないんだし……。思わず突っ込みたくなりましたが、悲しいかな、これはたぶん聞いてもらえない。
ところで、以前から思ってたんですが、台北の不動産価格って、みんな買ったときから下がることはないと確信してるようです。家は古くなっても、価格は上がって当たり前。どうもそれが台湾社会の一般常識のような気がしてなりません。
ほかにも気づいたことがあります。
貸し出す家について、どの大家さんも例外なく、いいことしかいいません。
まあ、少しでもいい条件で貸したいという気持ちはわかるので、それを否定しようとは思いませんが、それにしても都合の悪いことは一切いわないというか、それ自体がまったくなくなってる。その見事な「消えぶり」は感心してしまうほどです。
たとえば、築40年以上、エレベーターもなくて都市ガスも来てない。小さいのにくわえて間取りも悪く、窓の外はとなりの家がすぐそこまで迫ってるような家。それでも大家さんは「ここは交通が便利だから」の一点張り。
さらに、都合が悪いことを突っ込まれたときも、「えっ、こう来たか」と思うような切り返し。
「この部屋、クーラーは付けてもらえるんですか」と聞くと、「ここはホントに涼しいんだよ。だから大丈夫」とか、外は一面ハトの糞害にやられてるのを見て、「こりゃひどいね」というと、「ハトは平和の鳥だから、縁起がいいかも」とか。
とにかく「ホントにそうなの?」というような答えが平然と返ってくるのです。
でも、こういう大家さんが悪い人かといえば、決してそんなことはありません。
彼らがこんなふうにいうのも、おそらく、交渉の段階でひとつでもよくないことがあると、とことんそこを突いて家賃を値切る人がいるからじゃないでしょうか。だからそれに対する防波線。そんな感じだと思います。
というのも、交渉ではああでもないこうでもないといってる大家さんですが、その合間に世間話をすると、急に親切な一面が垣間見えたりすることもあるからです。そして中には、家賃を少し下げてくれるなんてケースも。で、一転して「いい人じゃん」と思ったり。
ただ、せっかく下げてくれた家賃も、ぼくの予算とはかなりの開きが……。
結局、大家さんの好意に申し訳ないと思いながらも契約には至らず。台北の物価の高さを恨みながら家探しは続くのです。
この原稿が掲載となるころには無事、新居が見つかってることを願ってます。

(2016年12月号掲載)

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第33回 日本人でしょ?

うちの近くの公園です。

ロータリーのように丸くなった広場があって、そこでは毎日何十人ものお年寄りが大音量のスピーカーから流れる掛け声にあわせて運動してるんですが、ある日、散歩がてらにそこを通ると、まったく風景が変わっていました。
集まってる人たちがいつの間にか若返っていたんです。手にはスマホ、目はそれに釘づけ。みんながみんなそんな感じなんで、傍から見ていてちょっと異様な光景でした。
でも、すぐにわかりました。
ここのところ話題になってるやつ、ポケモンGOです。
ぼくもニュースなんかで、ポケモンGOが世界的に盛り上がってることは知ってたし、それが台湾ではじまったことも知ってたんですが、聞きしに勝る盛況ぶり。で、いったい何がそんなに彼らを熱狂させるのか。ぼくの好奇心が一気に頭を擡(もた)げてきたのでした。
ちなみに、そのときぼくはポケモンGOの遊び方を知りませんでした。それどころかポケモンもほとんど知らない。っていうか、知ってるのはピカチュウだけ。
で、このことを台湾人の友達に話すと、こんな説明が。
「みんなポケモンを探してるんだよ。見つけたら、ボールを投げて、うまく命中したら捕まえられるから」
「ボールを投げる?」
「だから、アニメの中で投げてるでしょ」
「そうなの?」
ところが、ぼくのこの答え、彼女は想定してなかったらしく、「えっ、知らないの? 日本人でしょ?」と、何か物珍しいものを見るような目つきで、ぼくのことを見たのでした。

「日本人でしょ?」というのは、ときどきいわれることがあります。
台湾の人からすると、日本人ならこれは知ってて当たり前と思うことを、ぼくがたまたま知らなかったりしたときです。
でも、知ってて当たり前という基準についてはかなり無茶苦茶なこともあります。
たとえば、日本のどこか地方の小さな町へ旅行に行って帰って来たばかりの台湾人の友達から「あそこはいいよね」なんていわれたとき。「それどこ?」なんて返事すると、「えっ、知らないの? 日本人でしょ?」が飛んで来る。
ほかにも公務員の給料はいくらかとか、東京の市街地の不動産価格はどのぐらいとか。
もちろん、ぼくは公務員をやったこともないし、都内に不動産なんて持ってないので、そんなこと知るわけもないんですが(こういうのって、ぼくじゃなくてもほとんどの日本人が知らないと思うんですが……)、そんなことはあまり関係ないらしく、日本人だったら知ってるはずだと思う人もいるようです。
そして、ぼくにとって、この現象がもっとも顕著に現れるのが日本のドラマやアニメの話をしたときです。
普段から日本のドラマやアニメを見ないぼくは、彼らの話にほとんどついて行けません。一方、彼らのほうはというと、それが三度の飯より好きだったり。そんな彼らからすると、ぼくの反応はもどかしいというか、いらいらが募るんでしょう。というわけで、たびたびぼくは日本人であることを疑われてしまうのです。
さて、前述のようなケースで「日本人でしょう?」といわれて、ぼくはどう思うかというと、これがそんなに気にはなりません。「オレはドラマは見ないんだ。アニメも見ない」と、ある意味開き直ることができるからです。
ところが、そうはいかないケースもあります。
ぼくから見ても、日本人なら常識的に知ってるだろうと思われることを聞かれた場合です。
東京の人口ってどのぐらいとか、消費税って何パーセントとか、今年平成何年とか……。
大まかなところはわかるんだけど、普段身近に接してないから自信がない。こんなときは何ともいえない劣等感を感じながら、適当なことも言えないし、「うーん、それは……」とか何とかいってお茶を濁すのです。
台湾に長く住んでて、こんな経験をしたことのある日本人。きっとぼくだけじゃないと思うのですが……。

2016年10月号掲載

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第34回 小さい字

今の時代、ぼくも含めて、ものを書く仕事の人はほとんどがコンピューターを使ってると思います。
漢字もワンクリックで変換できるし、脱字なんかがあると文字の下に波線が入ったり、ある意味すごく便利。というか、そんなことを考えることさえないほど、それが普通になってます。
でも、その昔(もうかなり昔のことだけど)、ぼくがまだこの仕事をはじめたばかりのころは原稿は手書き、修正は赤ペンが当たり前でした。
そして、そのとき困ったのが校正です。
校正というのは誤植がないかどうか出版される前に仮刷りをして、原稿をチェックする作業ですが、台湾の出版社の場合、当時はこの仮刷りの初校がもうめちゃくちゃ。日本語の体をなしてないものもあって、「これ、ほんとに自分が書いたの?」と疑いたくなるようなケースさえありました。
で、どうしてそういうふうになるかというと、仮刷りを作るときに活字を組む「打字行(ダーズーハン)」と呼ばれる人たちが、日本語がわからないからです。文字の形だけ見て、それらしいのを組んでいくものだから、とんでもないのが出来上がってきます。
たとえば、ひらがなの「し」とカタカナの「レ」。これが区別がつかないらしく、「わたレ」とかいう言葉が平気で出てくる(「わたし」のことです)。カタカナの「ソ」と「ン」も曲者で、「しストラソ(レストラン)」なんてのにいきなり出くわすと、もう笑うしかありません。
そんな中で、いちばん厄介なのが「つ」でした。
「つ」はほかに似た文字があるわけではないんですが、促音、つまり「っ」のように小さく書くことがあって、この大小がぱっと目にわかりづらく、何回チェックしても必ずひとつふたつは見逃してしまいます。
で、出版されたのを見て、「行つて来ます」なんてのを見つけた日にはひどく落ち込むのです。

小さい字といえば、中国語の中にもあります。
それは「起(チー)」です。
道端なんかでときどき簡易テーブルやビニールシートを広げて、そこには大量のバッグとかシャツとか。店主が大声で「早く買わなきゃなくなるよ」みたいなことを連呼してます。
そしてそのわきにある看板。「100元」とか大きく値段が書いてあるんですが、よく見るとその横には「起」の文字が。
台湾在住の方なら、これだけでもう何のことかおわかりだと思います。
「起」は中国語では「~より」という起点を表す言葉。つまり「100元起」と書いてあれば、それは「100元より」ということで、100元で買えるのは最低金額の商品だけということを意味するのです。
そうとは知らず、おっ、きょうはツイてる、こんな安いのに出くわすなんて。と喜びながら、あれこれ品定めをして、気に入ったものを三つばかり。どうせ300元かそこらなんだから、モノが悪くたって大丈夫。そんなことを思いながら商品を店主に渡して勘定を頼むと、彼はぶっきらぼうに一言、「1500元」。
何っ!
一瞬、何が起こったか理解できない。1個100元のが三つだから300元じゃ……。と思って、もう一度看板を見ると「100元」の横に「起」の文字。これが「100元」の10分の1ぐらいの小ちゃな字で書いてあることに気付くのです。
まあ、こういうのはたいていが1回引っ掛かると、次からは引っ掛からないものなんですが、ぼくの場合、すぐに忘れてしまいます。そして何度か引っ掛かって、やっと値段の横に「起」の文字がないか確認するようになります。
でも、これが道端じゃなくて雑誌やインターネットの広告だったりすると、性懲りもなくまた引っ掛かってしまうのです。
そうやっていつの間にか、値段を見たら「起」を探す。そんな癖がついてしまいました。でも、最近ではおかしなもので、そこに「起」がなかったりすると、今度は何となく寂しい気がしたりもするのです。

2016年11月号掲載

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第32回 片っ端から

最近、携帯電話を換えました。

近い将来、2Gが使えなくなるので4Gに替えなければいけないといわれたからです。実のところ、何が2Gで何が4Gなのか、ぼくにはよくわからなかったんですが、携帯電話が使えなくなるのは困るし、それに中華電信がキャンペーンをやってるということだったので、めんどくさいと思いながらも重い腰を上げて行って来たわけです。
その日はキャンペーンの最終日。ぼくがサービスセンターに着くと、すでに3、4人の人が番号札を手に順番を待っていました。開いてる窓口は2つ。ざっと見積もって30分も待てば無事新しい携帯電話を手にすることができると思ったんですが、いくら待っても順番が回って来ません。
どうしてか。
ひとりのおばさんが窓口のひとつを独占してたからです。
もう少しわかりやすくいうと、そのおばさん、キャンペーン内容について窓口の係員に片っ端から質問してたんです。
「ねえ、こっちの機種だと何がどう違うの?」
「えっと、それはですね……」
「こっちのプランだと料金はいくらになるの?」
「えっと、それはですね……」
「この機種は何色があるの?」
「えっと、黒と白と赤と……、赤は在庫があったかなぁ」
こんな具合に、いくつもある機種のすべてについて事細かく聞いていたのです。
一方、店員もこれに対して律儀に答えてる。で、いつの間にか、ぼくのうしろには十人以上のお客さん。気が付けばサービスセンターに来てからもう1時間以上。
ぼくたちは何もいわず、ずっと自分の番がくるのを待っていました。

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さて、そんなおばさんを見て、ふと思ったのが、先日スーパーへ行ったときの出来事でした。
野菜売り場でトマトを買おうとしたときのこと。トマトの棚の前におばさんがドンと立ち尽くし、ぼくが棚に近づくのを阻止。まあ、ぼくより先にいたわけだから、文句をいう気もなかったんですが、そこでおばさんが何をしたかというと、発泡スチロールのパックに入ったトマトをひとつずつ手に取って片っ端から品定め。その間、やはりぼくは何もできずに、ただひたすら彼女が立ち去るのを待つだけでした。
このときのおばさん、「わたしの用が終わるまで、そこでおとなしく待ってな」みたいな強いエネルギーを発散してて、これが携帯電話のサービスセンターで見たおばさんと同じ空気だったんです。
こんなふうにされると、待ってる側はもう何もできないというか、「まあ、こんなことはめったにあるわけじゃないし、きょうは運が悪かったな」ぐらいに考えるしかなくなってしまいます。そして、「状況を全部把握したいのはわかるけど、もう少し何とかならないのかい」と心の中で毒づきながら、ひたすら黙って待つしかないのです。

そういえば、ぼくのよく行くコーヒーショップでも似たようなことがありました。でも、そのときは違った展開に。
これもおばさんなんですが(ごめんなさい、今回はおばさんばかりで。たまたまです)、メニューをめくりながら、苦(にが)みはどうなのかとか、酸味はどうなのかとか、そこに書いてあるコーヒーについて片っ端から聞いていました。
ウェイトレスはそのたびにひとつずつ、コーヒーの風味について説明しています。で、ぼくはその横で気の毒に思いながら、事の成り行きを伺っていました。
ところがこのとき、若くてイケメンのウェイターが現れてこういいました。
「苦いのがお好みでしたら、当店の特製マンダリンはいかがでしょう」
すると、おばさん、さっきまでの質問なんてなかったかのように「じゃ、それ」、とひとこと。
えっ、そんなに簡単に解決しちゃうの?
あまりのあっ気なさに、ぼくは魔法にでもかかったような気分になったのでした。

(2016年9月号)

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